罪の巻き添え被害

「的はずれ」は、自分の魂よりも隣り人に大きな被害を及ぼす

Christianity Today November 19, 2022
Illustration by Paige Vickers

8歳のアリアナ・シュネーバーグは、家の庭で遊んでいた時、飛んできた矢に背中を射された。近所の人がリスを射止めようとして、本来の的をはずし、この子の肺、脾臓、胃、肝臓を貫いてしまった。アリアナは、一命を取り留めたものの、この怪我による傷跡を負っている。罪を意味するギリシャ語「ハルマティア」は、「的をはずす」という意味だと、説教者が説明するのを聞くたびに、私たちはアリアナのような子のことを考えなければならない。

講壇で語られる決まり文句にはよくあることだが、この説明も、部分的に正しい事柄を指し示している。だが問題は、ほとんどの欧米人クリスチャンは、実際に弓を射た経験がなくても、ロビン・フッドのような情景を想像してしまうということだ。田舎で、干し草の山に立てられた的に向かって矢を放つといった情景を思い浮かべてしまう。この場合、的はずれというイメージはむしろ慰めになる。自分は犯罪者でも反逆者でもなく、時折的をはずしてしまうだけだと考えればいい。もう一度矢筒に手を伸ばして、的を射ればいい。

だが、聖書が語る罪は、これとは違う。聖書は、罪とは律法違反(1ヨハネ3:4)だと語る。聖書が罪の種類を定義する時、必ず加害者と被害者の両方を想定するかたちで定義する。つまり、敵対関係、不和、孤児や未亡人の抑圧、姦淫(かんいん)、貪欲などだ。

こうして見ると、罪は田舎の広々とした場所で的に矢を射る練習というより、都会の歩道に人がたくさんいる場所で矢を放つという方が当たっている。自分の周りには多くの人の体があり、それらは自分がはずした矢によって射貫かれて、もがいたり、すでに死んだりしている。

罪についての説教では、説教者がピューリタンのジョン・オーウェンの言葉を引用することもあろう。「罪を殺せ。さもないと罪はあなたを殺しに来る」。これもまた真実だ。それでも、まだ十分とは言えない。私たちの罪は、回りの人々をも殺しているかもしれない。「罪の報酬は死です」と聖書は語る(ローマ6:23)。ここで言う死は、自分自身の死というだけでなく、隣り人の死でもあるかもしれない。

ヨハネの黙示録は、複数の、様々な教会に宛てた回覧書簡である。宛先の教会の中には、ローマによって激しく迫害されていた会衆もあれば、ローマに同調し、その文化を受け入れた教会もあった。具体的な罪や誘惑の内容は違っていても、約束は同じだ。神は裁かれるということだ。黙示録の残りの部分は、その裁きがどのように世界に下されるかを描いているが、この書の中では世界はバビロンとして描かれている。しかし、裁きは教会から始まる。そして、神の民にとっての問いは、私たちは果たしてバビロンのような姿を呈しているのか、それとも新しいエルサレムの姿を表現しているのかということだ。

黙示録がなぜ多くの人にとって理解しがたいのかというと、一つには、謎めいたイメージがよく出てくるからだ。獣が海から上って来、淫らな女が七つの山の上に座している(13:1、17:9)。しかし、最も不可解な個所であっても、黙示録は、私たち皆がたった今、直面しているジレンマを描写しているのではないだろうか?

七つの山を持つ街ローマは、当時、きらびやかで裕福で、偶像崇拝の盛んな都市であり、途方もなく強大な獣、すなわち広大な支配力を誇る帝国の上に安住していた。この獣は、苦難をほのめかすことによって支配する。淫らな女は、贅沢と安楽という誘惑をもって支配する。獣は言う。「私の仲間になれ。そうすれば、権力をほしいままに与えよう」。淫らな女は言う。「私の仲間になりなさい。そうすれば、快楽をほしいままに与えよう」。だが、このすべての背後には、偽りがひそむ。獣はあの子羊を真似ている。その子羊は傷つけられたが打ち克ち、ご自分の民を選び分かつ。バビロンは神の国のゆがんだ姿だ。

獣のようになり下がる可能性があるのは、文字通りの帝国だけではない。ミニストリーもそうだ。自分たちは子羊を指し示していると考えていながら、実は獣のやり方にならっていることがあり得る。神の国に仕えていると思いながら、実はひと時のうちに滅び去るバビロンを打ち建てているかもしれない(黙示録17:12)。

私たちが認識し、根絶すべきものは、一つの偶像だけではない。性的因習打破、白人優越主義、キリスト教ナショナリズム、宗教混合主義、あるいは昔ながらのねたみ、競争心、貪欲まで、すべての偶像を根こそぎにすべきだ。私たちは、一定の「個人的な」罪を正当化する派と、一定の「社会的な」罪を正当化する派とに分かれてはいけない。

自分の罪は他人を実際に傷つけていると、心から信じているだろうか?自分のミニストリーが人を傷つけることがあり得ると、あるいはすでに傷つけたと信じているだろうか?もしそうなら、私たちがそもそも「福音派」と呼ばれるようになった要素を思い出そう。私たちは世界に、そして自分たちに向かって、単に「福音を信じなさい」ではなく、「悔い改めて福音を信じなさい」と告げる者たちだ。

神は憐れみの神である。その御子の血によって、私たち罪びとを赦す神である。しかし、神はまた裁きの神でもある。エルサレムとバビロンの違いを見通し、子羊と獣の違いを見抜くお方だ。様々なことが明らかにされていくこの時代にあって、私たちは御霊が諸教会に何と言っておられるかに耳を傾けなければならない。たとえ私たちが比喩で語ることが、的はずれであったとしても。

テッド・オルセンはクリスチャニティトゥデイのエグゼクティブエディターである。

翻訳:立石充子

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