この熟読シリーズでは、聖書学者が自身の弟子訓練の土台となり、今日まで影響を与え続けているみことばの中で、自身の専門分野である個所について思い巡らします。
私は記憶にある限りずっと、詩篇を歌ってきた。最初は子どもの頃教会で、その後は礼拝リーダーとして大学時代から今日まで。若い頃、マーティン・ナイストロームの「鹿のように」(詩篇42)やマット・レッドマンの「息のあるものはみな」(詩篇150)といったワーシップソングを、声の限りに歌っていたのを思い出す。
聖書学者になった時、私は新たな方法で詩篇と相対し、歴史や文化を考えながら詩篇を読むようになった。一方、礼拝リーダーとしては、詩篇を歌うことによって、会衆を神様の臨在の前に導く手助けをする。時には、詩篇を読むのは、自分をよく知る親友との会話のように感じられた。
2020年3月、疫病によって私たちの周りの世界がすっかり変わってしまった時、詩篇68篇は、私にとっての臨在の概念を新たにしてくれた。それは私が不在というものを新たなかたちで経験している中でのことだった。
多くの人が、あの時、新たな不在というものと格闘していた。物理的な存在というものを自分がどれほど当たり前に考えていたか、思い知らされた。大学の通路での同僚や学生との会話にしても、友人のハグや会衆賛美にしても。
2020年3月末、私は胸に不思議な痛みを感じるようになった。胸郭と背中全体にけいれんが走るのだ。この痛みは2か月近く続いた。当初、これはCOVID-19に関連するものではないかと考え、私は2週間隔離された。検査が陰性だとわかった後、私は再び家族と一緒にいることができるようになった。しかし、家族と同じ部屋にいても、ちょっとしたハグでさえできない状態が数週間続いた。痛みが強すぎたのだ。2か月後に痛みが和らぐまで、近接感の欠如、他の人の近くにいられないという感覚が続いた。
2020年3月、疫病によって私たちの周りの世界がすっかり変わってしまった時、詩篇68篇は、私にとっての臨在の概念を新たにしてくれた。それは私が不在というものを新たなかたちで経験している中でのことだった。
多くの人が、あの時、新たな不在というものと格闘していた。物理的な存在というものを自分がどれほど当たり前に考えていたか、思い知らされた。大学の通路での同僚や学生との会話にしても、友人のハグや会衆賛美にしても。
2020年3月末、私は胸に不思議な痛みを感じるようになった。胸郭と背中全体にけいれんが走るのだ。この痛みは2か月近く続いた。当初、これはCOVID-19に関連するものではないかと考え、私は2週間隔離された。検査が陰性だとわかった後、私は再び家族と一緒にいることができるようになった。しかし、家族と同じ部屋にいても、ちょっとしたハグでさえできない状態が数週間続いた。痛みが強すぎたのだ。2か月後に痛みが和らぐまで、近接感の欠如、他の人の近くにいられないという感覚が続いた。
この試練の中、聖霊は私に思い出させてくれた。物理的に他の人の近くにいられない時でも、神のご臨在を味わうことはできる。声の限りに神に賛美することができない時でも、礼拝の中で神が私の近くにいてくださることは変わらない。聖霊はこのことを詩篇68篇を通して教えてくださった。
詩篇68篇は、神のご臨在について多くのことを語る。特に、私たちが孤独で孤立していると感じる時、あるいは自分自身の必要を鋭く意識している時にはそうだ。68篇は詩篇を構成する5巻の中で第2巻に位置する。第2巻にはダビデの詩が多数含まれる。ダビデ自身による詩も、ダビデについての詩もある。68篇もダビデの詩の一つだ。67篇の賛美のテーマを引き続き扱い、次の69篇には、神のご臨在についてのもう一つの情景が描かれ、神はダビデを「深い泥沼」(2節)から救われる。
68篇が昔どのように用いられていたかについて、学者の説は分かれる。民が集団で歌う共同体の嘆きの歌だったのか、会衆が宮に入る時に歌われた賛歌だったのか、はたまたイスラエルが敵を打ち破ったことを祝う勝利の詩篇だったのか。いずれにせよ、68篇はダビデの生涯の場面を私たちに分かち合い、神の民が神のご臨在についてどのように歌うかに焦点を合わせる。
68篇は神の顕現の詩篇だ。顕現という言葉は英語ではtheophanyで、2つのギリシャ語の単語に由来する。theoは「神」の意味、phaineinは「現す」の意味だ。顕現とは、神のご臨在を経験すること、それも神がご自身を現された瞬間に味わうことだ!68篇の顕現は旧約聖書中の他の顕現の場面に関連すると、学者たちは指摘する。窮地に陥ったヤコブ(創世記28:10–22)に、モーセ(出エジプト記3章)に、イザヤ(イザヤ書6章)やエゼキエル(エゼキエル書1章)といった預言者に、神はご自身を現される。神が来られる時、神はご自分がどういう方であるかを啓示し、困難な状況を一変させる。このことによって、私は68篇における神のご臨在を今までとは違うかたちで理解するようになった。
第1に、神は68篇において勇士としてご自身を現す。今日、神が戦争に参加するという考えは私たちになじまないかもしれないが、自分は無力だと感じる時、神の力にどれだけ感謝するかを思い出せば、理解の助けになるだろう。神の力はどんな敵をも逃げ去らせ(1節)、悪しき者を溶け去らせる(2節)。
こうした敵を、私たちの周りの闇の勢力と考える時、このみことばに励まされる。神は、私が最も恐れるものよりも強い。神は死よりも、病気よりも、孤独や痛みよりも力強い。
学者たちは、古代近東地方における勇士のイメージを提示し、そのイメージと、詩篇68篇が描く神の姿との関係を指摘する。勇士として、神は雲に乗り(4節)、古代世界における勇士がしばしば嵐の神になぞられられることを反映している。
しかし68篇において、神は勇士であると同時に、世界の創造主でもあり、ご自身が造ったすべてのものを支配する(8、14節)。古代神の中で、このような力を主張できる神はいない。また、古代において、戦車(17節)は戦さのための最先端技術だった。その意味で、神はハイテクの勇士であり、ご自身が造った世界を用いてご自身の力を見せつけるのだ。
旧約聖書において、勇士である神はまた、ご自分の民をエジプトでの奴隷状態から解放し、海を分かち、敵を粉砕する。ヨエル書2章では、主の日に、神が勇士として被造物(ここではいなごの大軍勢。25節参照)に力を振るう様が描かれる。
神の名の力は旧約から新約へと突き進み、「イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ」る(ピリピ2:10)。ヨハネ12章はゼカリヤ書9章を引用し、エルサレムに入城する際のイエスを勇士として描写する。いずれの場合も、メッセージは明らかだ。「[あなたの敵を]恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ」(申命記3:22)。
その力にもかかわらず、神は古代イスラエルの同時代の指導者や、今日のリーダーとは異なり、強い者やエリートだけを重んじたり、厚遇したりする方ではない。
むしろ、詩篇記者は、神は他の人が見すごすような人に目を留めると指摘する。神は父のいない子の父となる(詩68:5)。未亡人を擁護する。喪失を経験した人のためには、神はその喪失のただ中にあって思いやりを示したいと願う。
夫のジョンと私が同時に哲学博士号を目指していた時、私はこのみことばを頼りにしていたのを思い出す。博士課程が始まったばかりの時、親しい友人の一人が白血病であっけなく亡くなった。その一方、ジョンと私は家計のやりくりに苦労していた。自分の人生が底なし沼に落ちていくように感じ、途方に暮れたのを覚えている。
ある晩、翌日の食料をどうしようと考えた。私たちの給料日はまだ先で、この先数日分の食料を買うお金もなかった。夜更けに、幼い娘のエレーナに食べさせることができるようにと祈ったのを思い出す。私は叫び祈った。「神様、私たちに必要なのは少しの果物と野菜だけです。あとできればミルクも。それで十分です」。
翌朝7時、玄関をノックする音が聞こえた。教会員の女性だった。彼女が言うには、神様が目覚めさせてくださった時、こう言われたのだそうだ。「週1回配達される物の中から、あの夫婦に新鮮な果物と野菜を持って行きなさい」。実は配達サービスが誤って余分に持って来ていたのだった。彼女は神様に、誰がこれを必要としているか尋ねたのだった。ミルクも入れた。なぜなら、神様がミルクを包みに入れるよう願っておられると感じたからだ。
この女性が話している間に、私の眼に涙があふれてきた。神は私の小さな具体的な祈りを気にかけてくださった。私の痛みが誰にも見えず、誰の耳にも届いていないように感じられる時でも、神は私を見ておられることを示してくださった。これは学ぶべき大事な教訓だった。自分は無力だと感じる時、神はあなたを見ておられる。神は父のない子に目を留め、その子の父となってくださる。神は、弱い人を攻撃しようと狙っている者たちの犠牲になりがちな未亡人を擁護してくださる。
神はまた、私たちの孤独に目を留める。神は「孤独な者を家に住まわせ」る(6節)。20代初めの頃、私は神学校に入るためアメリカからカナダに引っ越した。知っている人は誰もいなかったが、神は私の孤独に目を留めておられることを示してくださった。神はカナダで私のために友人や、親代わり、祖父母代わりのご夫婦という新しい家族を与えてくださった。神は神学校で夫となる男性にも会わせてくださった。何年も後、疫病流行の中、神は私に、神が臨在してくださっていたこうした一つひとつの時を思い出させてくださった。神はつねに、孤独な者を家に住まわせてくださる方であることを私に思い起こさせてくださった。
しかし、詩篇68篇はそれで終わらない。私たちの最も弱い部分をご存知である、一人ひとりに寄り添うこの神は、同時にご自分の民を奴隷状態から解放し、奇跡的な養いをもって荒野で彼らを生きながらえさせることができる神でもある。
神はイスラエルの民をエジプトから歌をもって導き出された(出エジプト15章)。民が水を必要としている時には雨を降らせた(詩68:8)。食物が必要な時にはマナを送った。貧しい者のために「備えをされ」た(10節)。これらのしるしを通して、神はその民が砂漠をさまよっていた時、「疲れた(中略)ゆずりの地」を新たにしてくださった(9節)。
これこそ全能の主、その力は他のどの王や国をもはるかにしのぐ(11–18節)。これこそご自分の民を救う神、「日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い」(19–20節)。
自分の人生と、自分の周りにある重荷とを見渡す時、神はそれらを持ち運ぶに十分な力を持つ方であると、神は私に思い出させてくださる。自分の周りの病い、死、破壊的状況を見るたびに、神はこれらすべての敵を打ち破る力のある方で、敵を打ち砕き、私たちを死から逃れさせてくださると、神は私に思い起こさせてくださる(21–23節)。
そして詩篇68:24–26は、私が礼拝リーダーとして長年やってきたことを行う。つまり、人々を礼拝の行列の中へと導くのだ。勇士である神が、神の平和と完全性に戦いを挑む敵を打ち破る時、私たちは賛美をもって応答する。
2020年に戻るが、私が痛みで息も絶え絶えだった頃、もう一度会衆の一員になりたい、そして力の限り神を賛美したいと切望したのを覚えている。賛美をもって応答することは、私たちの正しい自然な本能なのだ。
詩篇68:32–35は、最初の10節で神について理解した事柄に言及することによって、この賛美を継続する。力強く威光に満ちた主にほめ歌を歌うよう、全世界に促す。神の力はイスラエルの上だけでなく、すべての被造物に及ぶ。力と威光をまとうこの神は、原語の意味では恐れ多いお方であり、ご自分の民に力を与え、私たちの心の最も奥深くにある必要を知っている神でもある。
詩篇68篇を読むと、喪失や不在を経験している時にそばにいてくださる神を賛美するよう促されるだけでなく、すみに追いやられた人々、父のいない子、未亡人、孤独な人、貧しい人など、この社会で見過ごされがちな人々のことに思いが及ぶ。
自分の周りで誰がそういう人か、すぐには思い当たらないかもしれない。しかし、シングルマザーで、仕事と子どもの世話を両立させようとしている人を知らないだろうか?友人の中に、失業して、次はどうしようかと心配している人はいないだろうか?一人暮らしで孤独な人を知らないだろうか?
教会は、COVID-19の後、こうした必要を抱えた人々に手を差し伸べる方法を見出している。2020年以降の私の仕事の一つはカナダ貧困機関に対するもので、教会が神のご臨在にならい、困難を抱えた人々に寄り添うことによって、疫病にどう対応したかを調査している。疫病に苦しむ人の世話を継続的に行うのは、自分の周りで傷ついている人にキリストのご臨在を分かち合うための、数多くの方法のうちの一つにすぎない。
詩篇68篇は、神が私の痛みや、私の回りの人々の痛みに目を留めてくださること、そして彼らを癒すことができることを私に思い出させる。これこそ今ここで私たちと共にいてくださる神である。身体的苦痛、孤独、迷い、悲しみの中にあって私たちを見ていてくださる神である。この神こそ、他の人たちと物理的に一緒にいられない時でも、私たちと共にいてくださる神であり、他の人たちと一緒にいられる時にも私たちと共にいてくださる神である。そして、これこそすべての被造物を支配するお方、空を駆け巡る戦車として雲を用いることができるお方、私たちに必要な糧を与えることができるお方である。
Beth M. Stovell氏はアンブローズ大学旧約学教授であり、David J. Fuller氏との共著「The Book of the Twelve(小預言書)」など複数の著書がある。
翻訳:立石充子
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