2014年に、本誌は『Next: Pastoral Succession That Works(次どうぞ:牧会者承継の成功の秘訣)』の著者であるWarren Bird氏の記事を出版した。書籍の内容は、アメリカの著名な牧師100名が、自分の役割を新たなリーダーに引き継ぐにあたっての成功と失敗を描いたものだ。Bird氏と共著者のWilliam Vanderbloemen氏の調査結果によると、半数は65歳までに役割を退き、アメリカの教会リーダーの平均年齢は55歳だった。
今年、本誌はアジアの教会という別の文化の観点から、牧師の引継という課題について探った。階層制と年長者への敬意があるために、この地域で主任牧師がバトンを渡すのは困難になる場合がしばしばあり、一部諸国では高齢化のために、牧師も高齢になっても指導者の地位に留まることが多い。
本誌は東アジアと東南アジアの6人の牧師にインタビューした。中国、日本、シンガポール、インドネシア、フィリピンの牧師に対して、教会ないし教団は主任牧師に上限年齢を設けるべきかどうか、スムーズな承継に向けてどう準備したら良いかについて、彼らの考えを聞いた。「そう思う」と答えた回答者を先に配置した。
フレディ・レイ氏 68歳 インドネシア華人教会(GKI)前主任牧師および前会長 インドネシア ジャカルタ
教会や教団は牧師に上限年齢を設けるのが賢明だろう。私たちは皆、寿命が限られており、年齢と共に心身は衰えるからだ。私は65歳で退職することを選んだ。もっとも、退職後も顧問として継続して主に仕えた。これは以前より身体の負担が少ない仕事だ。退職した教職者は、他のリーダーのメンターとして関わることができる。[レイ氏は自身の教団の規則に、牧師の65歳という上限年齢を加えることに成功した。]
聖書は牧師に対する具体的な上限年齢を定めていないが、承継については聖書に描かれた例から学ぶことができる。たとえば、神は祭司とレビ人が宮で仕えるための期間制限を設けた(民数記8:25–26)。
リーダーシップ承継については、モーセからヨシュア、およびエリヤからエリシャへの例がある。牧師は、リーダーシップの役割を果たし始めた時から、承継計画を準備し始めなければならない。教会を導くとはどういうことかの模範を示し、神のみこころを求めて祈りに時間を費やすことによって、この準備を行う。新世代のリーダーを育成することは、現行リーダーの最も重要な役割の1つである。
アルマンド・カノイ氏 59歳 フィリピン・バプテスト神学校校長 フィリピン バギオ
教会は主任牧師に上限年齢を設けるのが賢明だ。なぜなら、場合によっては教会には主任牧師の親族が多数いて、彼らは牧師が高齢で亡くなるまで現職でいてほしいと願うからだ。そこで、そのような教会では70歳を退職年齢とするべきだと思う。
70歳でも、まだ頭脳が明晰で、知恵に満ち、人間関係も社会との関係も見事にこなしている主任牧師を私は見て来た。だが、肉体の健康は大きな課題だ。70歳を過ぎると、健康の問題が大きくなってくるのがしばしばだ。特に、教会から経済的報酬を十分に受けていない主任牧師にそのような例が多い。このことはまた、経済的困難にもつながる。というのも、フィリピンの主任牧師の大半は、医療保険も退職後の備えも持っていないからだ。主任牧師の中には、財務的報酬を確保できるように、高齢になるまで現職に留まりたいと願う人たちがいる。
もちろん、聖書は70歳を退職年齢と定めてはいない。たとえば、モーセは80歳で働きを始めた。だが、民数記8:25–26において、レビ人は、幕屋の備品の運搬という重労働を要する務めの遂行を、50歳でやめるように命じられている。肉体的には、彼らはこうした務めの遂行において、前ほどうまくできないかもしれないが、会見の天幕において、その他の務めの遂行を助けるように依頼されている。
これらのみことばからわかることは、職務をうまく遂行できなくなっていく時、主任牧師には他の務めに移行する必要があるということだ。年齢については、70歳というのはフィリピンでは高齢と考えられている。したがって、新たなタイプの新世代リーダーの出番だ。ヨシュアの出番なのだ。
ジャン・サン氏(仮名) 47歳 バプテストの家の教会牧師 中国
教会規約に具体的な年齢を書くことは、良くないかもしれない。なぜなら、信頼に足る、実績ある忠実な僕が長く仕える必要があるような、困難な時期が訪れるかもしれないからだ。また、健康状態は牧師それぞれによって異なるかもしれない。さらに、羊飼いとその群れとの関係も様々である。会衆がその牧師を深く愛し、信頼しているので、もっと長く職に留まるよう希望する場合もある。その一方、会衆が新鮮な空気を取り込みたいと考える場合もある。
同時に、年齢制限を設けることの利点も理解できる。主任牧師の中には権力にしがみついて、若い世代にチャンスを与えるのを拒む人もある。また、高齢になるにつれて、自分の考えを変えようという気持ちが薄れるものだ。中国語には、「熟練した達人は新しい技術を学べない」ということわざがある。高齢になると、変化が必要な場面でも、頑固に変更を拒む場合がある。
したがって、教会は主任牧師と信徒役員に年齢制限を設けるのが賢いと思うが、例外を認めるための基準も設定するのが良いだろう。聖書は、経験豊かなリーダーの価値(詩篇92:14、箴言16:31、20:29)と、人生の終盤に頑固になることや他人に支配されることの危険(創世記27:1、Ⅰサムエル2:27–33、Ⅰ列王1:1)との両方について語っている。
中国社会において、年齢を理由に高齢者から権威を奪うことは、相手に面目を失わせ、尊敬を欠いた行為となる。初代牧師はほとんど、亡くなるまで教会に仕える。そこで、この問題に関する私の考えは、中国の家の教会の多数意見とはかなり異なるが、(1970年代より後に生まれた)私の世代のリーダーの意見とは一致する。
新たな後継者を準備することは、牧師の働きを開始したらすぐに始めるべきだ。何が起きるかわからないからだ。特に中国ではそうだ。牧師はいつ拘束されるかわからない。新たな主任牧師への交替は、牧師と会衆との間の信頼関係がすでに確立されている場合には非常に困難だ。一人の牧師が長く仕えれば仕えるほど、その教会の文化は確固たるものになり、別の人がその文化に適応するのは難しくなる。
金本悟氏 75歳 練馬神の教会前主任牧師、日本ローザンヌ委員会前委員長 日本 東京
教会は主任牧師の上限年齢を設けて、リーダー移行の際に権力争いがなるべく起きないようにするべきだ。だが、もし教会が同意する場合には、牧師が続けて仕えることができる選択肢も設けるべきだ。
上限年齢を何歳にするかについては、それぞれの牧師による。健康状態や精神状態に応じて、延長または短縮できるようにするべきだ。私が1988年に練馬神の教会の牧師に就任した時、一般社会の定年は60歳だった。今日、定年は65歳に上がり、まもなく70歳になるだろう。牧師の上限年齢についても、教会の必要に基づき、柔軟性を持たせるべきだ。
ローマ人への手紙12:1–21によると、神は私たちに、召しに忠実であることを許してくださる。平和の君は、牧会リーダーを務めた後に、別の役割において主に仕える機会を私たちに与えてくださると私は信じる。私の場合、70歳で退職した後、保育園の園長となり、日本宣教学会会長にも就任した。
教団によっては主任牧師の上限年齢を設けているところがあるが、日本では牧師が不足しているため、規則を守るのは困難だ。多くの教会は、新たな牧師がみつかるまで、定年に達した牧師に留任を依頼している。それでも牧師が退職を翻さない場合は、教団リーダーは他の引退牧師に教会に来て説教するよう依頼したり、信徒リーダーが交替で説教する。時には牧師夫人が教会で説教支援をすることもある。
私は33歳で牧師になった時に、牧会の役割の引き継ぎの準備を始めた。若い牧師には、引き継ぎについて、また自分が導いている教会にとって何が最善かを早めに考え始めることを強く勧める。私が見てきた中で、承継における課題は、牧師の財政的資源をめぐる権力争い、牧師に対する教会員の愛着、またその逆方向の愛着などだ。こうした課題を理由として教会分裂に至ることもある。
ロラ・ティメニア氏 36歳 アジア太平洋神学校教職 フィリピン バギオ
牧師の上限年齢を定めるのは賢明ではない。神の召しは神によって計画されており、年齢、性別、人種、社会的地位によって制限されるべきではない。さらに、役職、役割、仕事に対する神の油注ぎによって、誰が仕え、どのくらい長く仕えるかが決まる。ヨシヤ王は王に任命された時、非常に若かった。カレブは約束の地に入った時、かなり高齢だった。したがって、神の召しには一定の年齢というものはない。
個人的には、私は70歳で退職して趣味三昧で暮らしたい。私たちの身体は年を重ねるにつれて弱る。以前はできたことが、身体の衰えにつれて難しくなる場合がある。記憶力、話す声、夜更かしする体力、社交のペースも、若い時と同じではないかもしれない。しかも、世代はどんどん移り変わる。私の世代が好んだ物事は、今の世代が好む物事とはかけ離れているかもしれない。
以上述べた上で、牧師職において、年齢はむしろ資産である。長年の間に身に付けた知恵、長期にわたって培われてきた神や会衆との堅固な関係、これらは教会の宝だ。そこで、神が牧師を退職に導いておられるのでなければ、牧師は年齢に関係なく職に留まるべきだ。
フィリピンの大部分の牧師は、退職に向けての神のきわめて明確な導きがあるまでは、牧師職に留まる。だが、多くの牧師は若手世代に職を譲る準備ができていない。牧師は年金制度がないため、教会謝儀の他に収入源がなく、牧師館以外に住むところがない。召命は終わったのに、牧師が生活の必要から職を離れたがらないという例もままある。
すべての牧師にとって、弟子訓練は優先すべき働きだと私はつねに考えてきた。弟子訓練とは、イエスに真心から従う人を育てることだ。イエスに真心から従う人は、最終的には牧会指導者を含む様々なミニストリーに仕えるようになる。あるシンガポール人牧師に言われたことを私はけっして忘れない。「私の天井があなたの床になるように」。その人に引き継ぎをするかどうかは別として、牧師は他の人々の立て上げを主な仕事とするべきだ。
スーイン・タン 68歳 シンガポールのキリスト教出版及び訓練ミニストリーGraceworks責任者
まず、教会とは何かと問う必要がある。教会が第一義的に家族であるとしたら、長老的存在に退職年齢を定めるのはおかしなことだろう。教会を第一義的に組織と考えるとしたら、承継計画をきちんと策定するために退職年齢を設けるのは意味がある。
聖書は主任牧師の退職年齢について語っていない。主任牧師の上限年齢の問題が出てくるのは、もはや歓迎されていないのに留まって、教会を機能不全に陥らせるリーダーが存在するからではないかと思う。これは考える必要のある問題だ。
したがって、問題は上限を設けるかどうかというより、どうすれば適切な人材が牧師として仕え続けることができ、どうすれば、もはやリーダーの役割を担うのにふさわしくない人材が退くのを助けることができるかを考えることだ。
また、もはや主任牧師として仕えるべきでない人材が、他の方法で仕えるための道筋を設ける必要がある。たとえばメンタリング、執筆、祈り、教育、牧会者のケアなどだ。ある人が主任牧師でなくなったからといって、御国のためにもう役に立たない人だという印象をけっして与えないようにしたい。
シンガポールは急速に高齢化が進んでいる社会だ。ヘルスケアや食事の改善に伴い、多くの人が高齢になっても健康で、十分活動できるようになるだろう。65歳とか70歳という数字は、人の能力を理解する助けには全くならないだろう。加齢の様相は人によって異なる。私の母は94歳で亡くなったが、亡くなる直前の約8年間は、認知症とパーキンソン病に苦しんだ。リージェントカレッジでの私の恩師ジェームズ・ヒューストン氏は101歳だが、今も執筆活動をしている。人がその職にふさわしいかどうかを測るには、年齢だけでは役に立たない。
神は、私たちが入る時と去る時を決める。だから、どんな時にも、牧師は教会を導くにあたり、教会とその宣教は、一人の人間よりも大きいのだということを伝えるように努めるべきだ。
追加取材:イザベル・オン