福音は様々に定義できるが、その中心は和解と帰属の物語である。私たちはまず神と和解し(Ⅱコリント5:16-21)、次に互いに和解する(エペソ2:11-22)。そのすべては、引き裂かれ砕かれたイエスのからだを通して起こる(16節)。
すべてのクリスチャンは、この福音を世に伝える使命を与えられており(マルコ16:15)、その伝え方には多くの方法がある。私たちは口で福音を宣べ伝えることができるが、私たちの信仰の真実が明らかにされるのは、私たちの語る言葉によってだけではなく、私たちの生き方にもよる。生き方こそが、私たちが宣べ伝える福音に重みを与える。山上の説教の冒頭でイエスが、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」(マタイ5:16)と言われたとおりである。
イエスに倣い、御父を賛美する生き方をすることは、罪と悪に汚された世界に生きるクリスチャンにとって、決して単純でも容易なことでもない。イエス自身、その道は狭く細いと告げたし(同7:14)、多くの意味で私たちが直面する困難は目新しいものではない。しかし、こうも言えるように思われる。つまり、今の米国の政治情勢は、「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派」(ガラテヤ5:20)に対する誘惑を伴い、特に分派への誘惑は強い。現代では政党と呼ばれるものを、実は建国者たちは分派あるいは派閥と呼んでいた。
今は、米国の教会内部の政治的混乱の時である。その混乱の一部は避けられないものかもしれない――福音の社会的、政治的意味合いと格闘する中で、忠実なクリスチャンは時として根本的に異なる結論に達することがある。だが、この混乱の一部は回避可能なものだ。それどころか、イエスは私たちに、混乱を避けなさいと命じる。混乱の原因は、キリストの道よりも私たちの派閥や党派性を優先することにある。
神学者スタンリー・ハワーワスは『平和を可能にする神の国』の中で、福音の物語を語る際、「私たちや世界がその物語を真実に聞くためには、私たちが特別な種類の人間になる必要がある」と書いている。
つまり教会は、欺瞞(ぎまん)と恐怖に満ちた世界において、平和と真実の共同体であることを決してやめてはならないということだ。教会は、「社会倫理」を構成するものについてのアジェンダを、この世に設定させるのではなく、平和と正義の教会が自らアジェンダを設定しなければならない。それはまず、やもめ、貧しい者、孤児を思いやるために、この世の不正義と暴力の中で忍耐を持つことによってなされる。
これはイエスが弟子たちに体現するようにと言われた物語である。それはイエスの生涯、死、そして復活の物語であり、実際的に言えば、私たちは山上の説教や、イエスのその他の教えに従うことによって、それを体現するのである。「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)とイエスは言われたが、それは柔和、憐れみ、純潔、平和、勇気、自己犠牲的な愛(マタイ5章)を命じるものであり、その対象は敵にも及ぶ。
米国の政治情勢においては、そのいずれも機能していない。これはハワーワスの言葉を借りれば「欺瞞と恐怖」の風潮である。米国の政治は、私たちと異なる人々について嘘(うそ)をつき、私たちを怒らせ、恐れさせている。共和党員はすべて人種差別主義者で、この国を専制政治に引き込もうとするファシストなのか、民主党員は全員、子どもたちを洗脳し家族を崩壊させようとするマルクス主義者なのか。答えは明らかにノーだが、このような嘘はこの国のいたるところにある。こうした嘘は私たちに、「互いに、かみつき合ったり、食い合ったり」(ガラテヤ5:15)するよう教え、キリストにある兄弟姉妹に対してさえそうしろと言う。
まさにこのような混乱の中でこそ、イエスの教会は別の物語の証人として立つよう求められている。それは、神が敵を友とし、その食卓に居場所を与える物語だ(ローマ5:10)。もし私たちが語っているのがそのような物語でないなら、つまり私たちが声高に語っているのが共和党の物語や民主党の物語、あるいは米国政治の物語であるなら、世界はイエスの真理を聞くことができず、私たち自身も神の物語を正しく聞くことができないだろう。私たちは自分の耳に心地よいことを言うだけで、結局は真理に対して耳をふさいでしまうのだ。
イエスは、私たちの人生をかけてイエスの物語を体現する方法について、かなり具体的な指示を私たちに残している。自分が怒らせたと重々承知している相手と積極的に和解しなさい(マタイ5:23)。欲望や性的不道徳を許すな(同27-30節)。何事にも正直であれ(同37節)。気前よくしなさい(同6:2-4)。たとえ相手が自分を軽んじても、そうしなさい(同5:40-42)。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(同44節)。
これらの命令は決して甘美なものではない。勤勉と忍耐と勇気を必要とする。困難で、もしかしたら痛みさえ伴うキリストの道へと私たちを招く。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:6-7)。
米国の現在の政治は、このような物語を語っているだろうか。私たちはこの物語を生きているだろうか。その答は非常に重要だ。なぜなら、私たちが生きる福音は、私たちが信じる福音だからだ。
米国政治が語る物語は、政策立案の言葉で偽装された敵づくりの物語であることがあまりにも多い。「我々はあなたがたの権利を守ろうとしている」と、1つの政党が主張する。「だが、『彼ら』はあなたがたの権利を奪い去ろうとしている」。「我々はこれを守ろうとしている。だが、『彼ら』はそれを破壊しようとしている」。「我々はあなたがたにこれを与えたい。だが、『彼ら』は悪い人々にこれを与えようとしている」。
このことがどの程度あてはまるかは、個別の具体的な事例により、政党や政策によっても異なるだろう。しかし、私は提言したい。政策や権利の問題は、重要ではあるが、クリスチャンにとっては、キリストにおける和解より後に来るべき問題だと。つまりイエスによって、イエスにおいて、イエスの周りに形作られる共同体への和解に比べれば、二の次なのだ。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて加えられます」(マタイ6:33)。
実に、米国にも世界中にも、怒るべきことはたくさんある。あらゆる罪が見出しに踊っている。私たちの周りでは不公平がまかり通っている。しかし、このような状況の中でこそ、イエスはご自身の命令に従うよう私たちに呼びかけているのだ。そしてその命令は、ため込むより与えること、憎むより祝福すること、復讐より赦すこと、戦争より平和を求めることを教えている。欺瞞と恐怖の世界において、イエスは私たちに愛しなさいと命じるのだ。
Joshua Bocanegraはミズーリ州カンザスシティに住み、Estuaries[訳注:河口の意]というミニストリーで奉仕している。このミニストリーは、規律正しく、御霊に満たされ、包括的に健全なかたちで、共同体リーダーを弟子として育成することを目指している。