講解説教者ジョン・F・マッカーサー・ジュニアは、録音説教、ラジオ放送、聖書注解書、ベストセラーとなったスタディバイブルを通じて、無数の人にみことばを教えたが、さる14日、86歳で召された。
マッカーサー自身の言葉によれば、彼の働きの最も重要な特徴は、聖書を聖書で説き明かすことだ。説教の中に自分の体験、最近のニュースについてのコメント、感情に訴えかける表現などをあれこれ詰め込むのではなく、不変の真理を教えるのだ。グレースコミュニティ教会を長年牧会した彼は、良い説教は50年後に聞いても良い説教であるべきだと語る。
「何か社会事象や個人的な出来事に結び付けるものではありません。説教は私に関するものではなく、時代ばかりか文化をも超越するのです。」とマッカーサーは述べた。
1997年に出版された『マッカーサー・スタディバイブル』には、特定の章節に対する2万件の注釈、重要な教義の索引、聖書各巻の概説、複数の聖書通読プランが含まれ、22年間で200万部が売れた。
彼の新約聖書注解は、ムーディー・パブリッシャーズが31年間にわたり34巻のシリーズとして出版し、やはり100万部超を売り上げた。
「彼は超一流の講解説教者でした。」と本誌に語ったのは、『Left Behind(置き去りにされた人々)』著者で、元ムーディーの編集者ジェリー・ジェンキンズ氏だ。マッカーサー注解シリーズを最初に提案した人物でもある。「とにかくすばらしい講解者でした。40分の説教が、いつも10分ぐらいに感じました」。
マッカーサーはよく議論を巻き起こしもした。聖霊の賜物や、聖書が言うジェンダーの役割、救われるための必要条件などについて、意見を異にする福音派の人々と衝突した。
時には彼は、こうした対立にもっと謙遜に取り組むべきだったと認めた。「獅子ではなく、もう少し子羊のように語るべきだったかもしれません。」と、一つの説教について述べている。だがマッカーサーは、本物でないクリスチャンは、クリスチャンを自称していても裁かれるというのは重要な点だとも考えており、これが自身の働きの第2の特徴だとした。
マッカーサーの最も熱心な信奉者は、彼の激しさに鼓舞された。風刺的ニュースサイトの『バビロン・ビー』は、滑稽な論争に勝利を収めた戦士として、何度もマッカーサーを取り上げた。クリスチャンのジャーナリストであるメーガン・バシャム氏は、彼の勇気を称える。
「マッカーサー氏は、(中略)妥当性を追い求める最新流行の論議に加わるのを、一貫して拒んだ。だが、彼が拒んだことによって、その働きは新たな世代に持続的な妥当性を持つものとなった。」とバシャム氏はソーシャルメディアプラットフォームXに投稿した。「彼の教えが私の人生に与えた影響について、いつまでも感謝する」。
マッカーサーは1939年6月19日、アイリーン・ドッケンドーフ・マッカーサーとジョン・F・マッカーサー・シニアとの間に生まれた。彼の父、祖父、曾祖父、高祖父は皆、福音派の説教者で、その出自はカナダとスコットランドに遡る。
父親はバプテストの牧師で、巡回伝道者として1940年代前半のカリフォルニア州南部で、ロイ・ロジャーズやデイル・エバンズなどの映画スター向けのミニストリーを立ち上げた。『Voice of Calvary(カルバリの声)』というラジオ・ミニストリーも行い、これはジョン・M・パーキンズの回心に影響を与えた。後に人種和解の福音派擁護者として知られるようになった人物だ。
息子のマッカーサーは、5、6歳の頃に父親の真似をするようになったと回想する。裏庭に置いた箱の上に立ち、近所の友だちや3人の妹ジネット、ジュリー、ジェインに向かって説教した。
「福音を信じていなかった時期というのは、記憶にありません。」とマッカーサーは語る。「反抗したこともなく、いつも信じていた、そういう子どもでした。だから、私の心に神様が救いの業を成してくださった時、はっきりした経験というのはありませんでした」。
成長するにつれ、マッカーサーは説教よりスポーツに関心を寄せた。大学ではフットボールをやりたかったが、父親は彼にボブ・ジョーンズ大学に行けと言った。そこには当時、大学連盟加盟のチームはなかった。フットボールをやる代わりに、マッカーサーは路傍説教チームに入れられた。
大学では「少しいら立っていた」と、彼は後日回想している。自動車事故をきっかけに、神に全面的に従う必要があると確信させられた。
その後、説教の中で繰り返し語ったとおり、彼は巡回説教のため車で国を横断中だった。1年生を終えて、他の5人の青年と一緒だった。アラバマ州のハイウェイを走行中、運転者は追い越しをしようとして、車のコントロールを失った。フォード・フェアレーンの2ドア車はスピンし、宙返りし、回転した。この時、時速は100〜120キロ。車は上下逆さになって止まった。
マッカーサーは車から投げ出され、背中で路面を滑っていった。
「背中は骨が見えるほどすりむけていました」と彼は振り返る。「立ち上がって、自分は生きている、と思いました」。
数か月間、うつぶせ寝で入院生活をする中、2年生の学びのためにボブ・ジョーンズに戻ろうと決意した。ミニストリーへの召命を受け取ったと考え、すべてを神に献げる必要があると感じた。
「主よ」と彼は祈った。「私の人生はあなたの御手の中にあることがわかりました。私の究極の行き先だけでなく、この世で生きている間も、完全にコントロールしておられるのはあなたです」。
だがマッカーサーはその1年後、フットボールをやるチャンスを再び与えられ、その道に進むことにし、ロサンジェルス・パシフィック大学に転籍した。後に彼は、ワシントン・レッドスキンズやクリーブランド・ブラウンズなど複数のプロチームから誘いを受けたと言っているが、大学の記録によれば、彼はこのカリフォルニア州の大学で目立った選手ではなかった。1年間で、タックル5回を決め、ランニングプレーで3ヤード獲得したのみだった。
マッカーサーは1961年、結局人生をフットボールに捧げるつもりはないと結論した。それより父親にならい、ミニストリーに入ろうと考えた。
神学校卒業後、最初の仕事は父親の下での副牧師だった。教会名は祖父の名にちなみ、ハリー・マッカーサー記念聖書教会だった。数年後、独立したいと考え、グレースコミュニティ教会の招聘(しょうへい)に応じた。カリフォルニア州ロサンジェルスのサンバレー地区にある、無教派単立教会だった。牧師2人が立て続けに亡くなり、およそ400名の会衆はぜひ若い牧師をと願っていた。
29歳のマッカーサーは、この教会にさして感心しなかった。グレース教会のモットーは、「本質については一致を、本質以外については寛容を」というもので、彼はこれを、少々愚かな、感傷的なものとして片付けた。教会には教義らしい教義がなく、マッカーサーによれば、昔からの会員の多くは、リーダーでさえも本物のクリスチャンではなかった。
「役員会には救われていない人がいました。教会リーダーの中にも救われていない人がいました」とマッカーサーは語る。「でも、何がほしいか認識している良い人たちも相当数いました。彼らは神のみことばを教えてもらう必要があるとわかっていました」。
マッカーサーは、1969年の最初の説教をマタイ7:21から語った。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
その後、彼は新約聖書の書物を毎回1巻ずつ取り上げて説教し、まずヨハネの福音書、次にペテロの手紙第一と第二から語った。マッカーサーは週に30時間かけて説教準備をし、それ以外の牧会的責任をほとんど、長老や信徒リーダーに任せた。
教会は急成長した。グレース教会は1971年、1,000名収容の新会堂を建て、その後1977年に再拡大を果たし3倍の規模になった。70年代末にはロサンジェルス最大のプロテスタント教会となった。
マッカーサーの録音説教の需要も爆発的に増加した。教会員は毎週5,000本のテープを発送し、やがて15,000本、ついには3万本に達した。70年代末には、米国全土で10万人以上のクリスチャンがマッカーサーの録音説教を毎週受け取っていた。教会は「グレース・トゥ・ユー(恵みをあなたに)」という独立のミニストリーも立ち上げ、キリスト教ラジオ局でマッカーサーのメッセージを放送した。
「ジョンのミニストリーからわかることですが、健全で明快な聖書講解というだけで、説教は時代を超えて長続きするんです」。グレース・トゥ・ユーのエグゼクティブ・ディレクターであるフィル・ジョンソン氏は2011年にこう語っている。「仮に説教の目的が、霊的に死んだ魂を覚醒させ、罪にまみれた人生を聖め、変革することだとしたら、結局大事なのは、説教者が明快に、正確に、率直さをもって忠実にみことばを告げ知らせることだけです」。
だがその説教は、論議を巻き起こすこともしばしばだった。1979年、マッカーサーはテトス2章と使徒パウロの教えから語り、女性は「家事に励み」、「自分の夫に従順である」(5節)べきだと説いた。女性は家の外で働くべきではなく、家族には2人分の収入は必要ないと語った。
教会リーダーは、リーダーだけでなくスタッフも全員男性にする必要があると決定した。この方針発表により、教会とその周辺コミュニティは大騒動となった。マッカーサーは「クリスチャン男性優越主義者」だと非難して、グレース教会を離れる人も多かった。
その翌年、グレース教会に集っていた一人の男性の家族が、聖職者の過失責任を問う裁判を起こした。ロサンジェルスタイムズによると、この種の訴訟として米国初のものだった。教会の教職者たちは、ケネス・ナリーという自殺願望のある青年を指導していた。もっと祈り、聖書を読み、マッカーサーの説教テープを聞くよう青年に忠告した。ナリー青年が命を絶った時、遺族は弁護士を雇った。カウンセリングを行っていた教職者たちは、精神分析医と同様の法的基準で責任を問われるべきだと、遺族は主張した。カリフォルニア州裁判所は、最終的に合衆国憲法修正第1条を根拠に、訴えを退けた。
おそらく最大の論争は、1980年代後半にマッカーサーが『イエスの福音』を世に出した後に起きたものだ。この本で、罪人がキリストを救い主として受け入れるだけでは不十分、本当のクリスチャンはイエスを主と認めなければならない、と彼は主張した。
マッカーサーによれば、アメリカの福音派は、狡猾(こうかつ)で安易な信仰主義という、とんでもない偽りの約束で、何百万もの人々を道に迷わせてしまった。しかも、クリスチャンを自認し、新生の証しを持つ人々の多くも、実はキリスト教の真理の基本中の基本について、深刻な誤りに陥っていると言う。
ダラス神学校の保守的な福音派の多数の人々を含め、批評家はマッカーサーを、信仰と業を混同し、信仰義認を否定するものだと批判した。神学者のチャールズ・C・ライリー氏は、マッカーサーは神の恵みを薄め、汚染したと記した。新約学教授ゼイン・ホッジズ氏はさらに強い口調で、マッカーサーの教えは「芯から悪魔的」だとした。
著名な福音派クリスチャンの中には、マッカーサーを擁護する人々もいた。彼は悔い改めと弟子育成についての昔ながらのキリスト教の概念を、より明確に述べただけだと彼らは主張した。
たとえば神学者J・I・パッカー氏は、マッカーサーを改革派の教えに一致するとし、信仰は「魂全体の現実である。そこには愛情と意志の側面が伴うと同時に、知的側面もある。」と述べた。南部バプテスト神学校学長アルバート・モーラー氏は、『イエスの福音』を「危険な誤解を正すための、ぜひとも必要な本」だと評した。
「マッカーサーが語ることと、彼が言わんとしているらしいこととの間には、しばしば相違がある。」と新約学教授ダレル・L・ボック氏は記す。「マッカーサーの文体には曖昧なところがあり、彼の本当の考えを見分けるのはむずかしい」。
マッカーサーがカリスマ派を攻撃した際には、誰も彼の曖昧さを批判することはなかった。聖霊の力に満たされたと信じるクリスチャンは、偽りの「道に外れた」キリスト教を教えていると、彼は語った。そういう人々は「サタンにそそのかされた」「軽率な人々」だとし、キリスト教メディアにカリスマ運動の存在感が広がっていることを公然と非難した。
「これは乗っ取りだ。キリスト教に関する人々の考えをつくり変えてしまった。常軌を逸したキリスト教だ。」とマッカーサーは述べた。「彼らの神学は間違いだ。非聖書的で、道からはずれ、破壊的だ」。
マッカーサーはまた、女性も聖書を教えるための召しを受けると考えるクリスチャンについても、立場を明確にした。聖書における明白で普遍的な命令を無視していると非難し、みことばに対する「明らかな反抗」にはしっているとした。マッカーサーによれば、女性は教会で語るべきではなく、教会でも一般社会でも、権威ある地位を持つべきではないとされた。
マッカーサーはことさら、人気の女性聖書教師ベス・ムーア氏を攻撃した。テレビで宝石を売るための能力は当然あるが、説教するための召しと混同するべきではない、と語り、「家庭に戻れ。」と述べた。
2020年代になって、別の論争が起こった。アイリーン・グレイという女性は虐待を逃れるために夫から離れたのだが、そのことでマッカーサーに公の場で名誉を傷つけられたと、彼に対する非難を公表したのだ。グレース教会子ども担当牧師デビッド・グレイ氏は、こう告白した。しつけとして、娘の一人の両脚、両手足、頭を「必要以上に荒々しく、暴力的に」打ちすえ、その他の二人の子を引きずり回した。アイリーン氏は、グレース教会牧師から、悔い改めない夫であっても赦し、「イエス様のように苦しむ」べきことを子どもたちに教えるよう指導されたと語った。これに反し、子どもたちを連れて彼女が家を出た時、マッカーサーは講壇から彼女を断罪し、彼女は本物のクリスチャンではないとほのめかした上で、会衆に彼女を避けるよう指導した。
デビッド・グレイは後に、子どもに対する身体的・性的虐待の罪で刑務所に送られた。
同教会のホーン・チョー長老は、2022年にアイリーン・グレイ氏の除名決議を見直し、彼女は不当な扱いを受けたと結論づけた。彼は、彼女との関係を少なくとも非公式的に正すべきだと指導陣に促した。チョー長老がクリスチャニティ・トゥデイに語ったところでは、マッカーサーはこれに対して「とんでもない」と言ったという。
チョー氏は長老を辞したが、後に知ることになる。教会内で他に少なくとも8人の女性が、虐待する夫のもとに留まるよう、指導されていたというのだ。自分や子どもたちの身の安全に危険を感じていた時でさえも。
教会指導陣は、具体的な非難の事例について回答することを拒否したが、声明を発表し、教会の指導は聖書的であるとして擁護し、本紙の報道は「虚偽」だとした。
マッカーサーは別のところで、公の批判や非難への対応に苦慮しており、彼が「反乱」と呼ぶものについては、特に傷ついたと述べている。
「反乱は複数回起きました。ショックです。自分の親しい友、一緒に食事してきた友が自分に向かってかかとを上げたんですから。つまり、聖書がユダについて言っているようにです。」と彼は語った。
論争の波は数十年の間に何度も押し寄せたが、マッカーサーの影響力はそれほど衰えなかった。
グレース教会会堂の3,500席は、2025年も毎週末、複数回行われる集会で埋め尽くされた。マッカーサーの説教は全米1,000局余りのラジオ局で放送され、グレース・トゥ・ユーにより配布された。マスターズ神学校には700名以上の男性が在籍し、マッカーサーは同校総長を務め、教会リーダーのための年次会議にはおよそ5,000名が参加していた。
『マッカーサー・スタディバイブル』は今も売れ続け、現在、新欽定訳、新国際訳、英語標準訳、新米国標準聖書訳、レガシー標準聖書訳の各翻訳版が出ている。マッカーサー・デイリーバイブルというスマートフォン・アプリは、500万回以上ダウンロードされている。
長年出版界に身を置くチップ・ブラウン氏は、こう語る。人々がマッカーサーに頼るのは、彼を牧師として信頼しているからであり、彼が「テキストの言っていることを説き明かし、それが自分たちの人生にどう適用できるかを示しているからです」。
マッカーサー自身は、自分が聖書教師として人々に記憶されることを願っていると語る。
「とにかく、主のしもべであった人間として知られたいですね。」と彼は述べている。「みことばの教えと、新約聖書で明らかにされた福音の奥義とに忠実な人物として」。
マッカーサーの遺族は妻のパトリシア・スミス・マッカーサー、子どものマット、マーク、マーシー、メリンダ、15人の孫、そして9人のひ孫がいる。