クリスチャニティトゥデイは、神道がキリスト教信仰にとって障壁となっていること、クリスチャンが日本でもっと効果的に伝道するためにできることについて、東京基督教大学国際宣教センターの山口陽一センター長にインタビューした。
日本宣教は1549年以来なされているにもかかわらず、クリスチャンは日本の人口の1パーセント未満です。神道の存在が、キリスト教が日本で広がりにくい理由の一つだと思いますか?
はい、神道はキリスト教の広がりにくさの大きな理由です。神道にはドグマも明確な道徳規範もありません。その人の心にこれでいいと感じられれば、それは良いことになります。
宗教に対するこの本能的なアプローチは、日本人の文化的意識に染みついています。日本人はふつう、宗教を信条の点から考えるというふうにはなりません。神を意識的に礼拝し、神のことばに聞き、神と契約関係に入るという考えは、多くの人にとって馴染みがありません。
また、情緒的・共同体的つながりがあって、それを棄てがたいということもあります。日本では、家族は神道儀式に参加することが期待されます。たとえば葬儀、神社参詣、神道墓地にある先祖の墓を守ることなどです。もしキリスト教への改宗を求められたら、「先祖との絆を切り捨てることはできない」とか、「先祖の墓を放っておくわけにはいかない」などと言う人もあるでしょう。
究極的に、日本における伝道の最大の障壁は、内面に深く根付いた「日本人らしさ」かもしれません。そして、それは神道の世界観と間違いなく結びついています。クリスチャンになるというのは、そうした文化的・家族的枠組みの外に踏み出すことです。日本でクリスチャンになるのは、ある程度、個人の覚悟が必要です。家族や地域社会の期待に反することをし、伝統にも逆らうわけですから。気軽には決断できません。
日本で神道的な世界観を持つ人々に福音を伝えるために、福音派はどのようにアプローチすればよいでしょうか?
宣教師は、たとえば韓国などのクリスチャン弟子育成のモデルを実施しようとしてきましたが、日本ではなかなかうまくいきません。そういうモデルが悪いというのではなく、日本は、宗教が主として良心の問題として機能する社会なのです。個人の内面の「心」に深く納得されないと、何も根付きません。
もちろん、良心はゆがむことがあり、それだけでは不十分です。でも、良心がなければ神と出会うことはできないし、祈り、礼拝し、神との真の関係を結ぶこともできないと思います。真の良心は自立しているのではなく、神の恩恵の下にある良心です。
日本人は宗教を心の問題ととらえ、信条の問題とはとらえないので、良心についての神学的考察は、心と知性との間の架け橋を提供できるかもしれません。これは伝道や弟子育成に役立つでしょう。
神道に関して、日本の内外の福音派がもっと意識すべき前提や誤解にはどのようなものがありますか?
日本の熱心な福音派の中には、神社の入口の鳥居をくぐるだけでも、霊的に汚れるのではと恐れる人がいます。逆に、神道的美意識に情緒的に惹かれていく人もいます。
私は「日本的キリスト教を読む」という連載の中で、クリスチャンが神道混合主義に陥るきっかけは、しばしば情緒的な体験であると記しました。たとえば、朝、太陽を見上げたら、涙があふれてきて、その時から神道の世界観に注目していくというようなことがあります。神道では自然を神の被造物と考えるのではなく、自然と神々とを同一視しますから。
そのような出会いにおいてかき立てられる日本人の伝統的感情を「もののあはれ」と言います。これは、人生のはかなさをほろ苦く意識することで、創造主なる神への畏敬とは違います。
大事なのはバランスです。神道を過剰に恐れてもいけないし、無批判な感情移入も避けなくてはなりません。神社が日本で果たしてきた歴史的役割を理解するのは、非常に重要です。
私自身はいろいろな神社に行くのが好きです。「ここに来る人たちは何を求めているんだろう?」と考えます。神社で熱心に祈っている人を見かけると、「この人が教会に来て祈るのを妨げているものは何だろう?」と思い巡らします。そうした問いかけは大事です。クリスチャンは敬意と警戒感の両方を持って神道を見るべきです。
本シリーズには、「日本におけるキリスト教と神道の対話」、「日本社会における神道の歴史的・今日的影響」、「神道の中核にある教え」についての記事がある。