黙示録は未来のための戦略ではなく、現在のための福音だ

この不可思議な書物をもう少し明確に理解するために、予言というレンズに代えて宣教というレンズをはめてみよう。

Christianity Today September 28, 2022
Illustration by Jeffrey Kam

人生の大半において、私は黙示録を苦い薬のように扱ってきた。おそらく自分にとって良いものだとわかってはいたが、できれば避けたいものだった。

Foretaste of the Future: Reading Revelation in Light of God's Mission

Foretaste of the Future: Reading Revelation in Light of God's Mission

InterVarsity Press

256 pages

$26.96

これは、私が黙示録を読むように教えられてきた環境によるところが大きい。十代の頃、青年会で映画を観た。そこにあまりにリアルに描かれていたのは、本当のクリスチャンが天国へと逃れた後、地上に残された人々の味わう恐怖体験だった。私は戦慄を覚えた。後に私は預言書を学んだ。預言書は、中東で当時起きていた出来事と、終末についての聖書のシナリオとを結び付けようとしていた。私は混乱した。それで、私は黙示録を理解しようとするのをあきらめた。事実上、黙示録は私のバージョンの聖書における付録のようになってしまった。つまり、ふだんは黙示録を難なく無視することができたし、黙示録が大きな問題になったとしても、私は黙示録なしで生きることができた。

キリスト教の働きのための訓練を受けた後でさえ、私は黙示録から説教したり教えたりする自信がなかった。あまりに不可思議で、暴力的で、奇妙な書物だった。空想小説にあるような幻は、クリスチャンの日常生活の実際的問題とはほとんど無関係に思えた。せいぜい、こう警告しているだけだ。「準備しておくがいい。終わりはいつ来るかわからないのだから!」

こう考えていたのは私だけではなかった。長年の間に、黙示録についての説教を聞いたのはほんのわずかだ。あるとすれば、比較的「安全な」個所、つまり2〜3章の諸教会へのキリストのメッセージといった個所からの説教を時たま聞くだけだった。だいたいにおいて、黙示録からの命を与えるメッセージは、教会にとっては無音になったままだ。

レンズ矯正

度の合っていない眼鏡をかけようとする人のように、私の問題はレンズだった。私の初期設定は、予言というレンズを通して黙示録を読むことだった。多くのクリスチャンと同様に、私はこの啓示の書を、将来起こる出来事についての予言の書だと第一義的に考えていた。ヨハネの幻は、終末の出来事に関する一種の台本の役割を果たしていた。たとえば、ハルマゲドンの戦いや、反キリストによる地上支配などがそうだ。このレンズを通して読むと、今日の神の民のために黙示録が語る良い知らせを、なかなか見出せなかった。

しかし、仮に別のレンズを通して黙示録を読んだとしたらどうだろう?たとえば、予言のレンズに代えて、宣教のレンズを通して読んだとしたら?少し説明しよう。宣教というレンズを通して聖書を読むのは、教会による異文化宣教を支持するようなみことばを一つずつ見つけることとは、根本的に違う。むしろ、あらゆるレベルで救いと癒しをもたらすために、神がこの世で行っていること、そして神の民がその全体的目的にどう参画するかについて聖書を読むことだ。

この原則を黙示録にあてはめるとどうなるか。終末のための戦略を見きわめようとする代わりに、殺された後に復活した子羊であるキリストによって、人間を含む全被造物を贖(あがな)い、回復するという神の壮大なミッションについて、黙示録がどう証言しているかを見出さなければならない。黙示録は、この世に対する神の愛に満ちた目的の究極的ゴールを示している。それは、「すべてを新しくする」(黙示録21:5)ことだ。

しかし、それだけではない。黙示録は、神がこの世に完全性と救済をもたらすために何をなさっているかに、神の民が夢中になるように、神の民を整え、力づけることも目指している。主として未来を予言するのではなく、黙示録は私たちに対して、今ここで未来の前味として生きるようにと呼びかける。神がついにすべてを新しくしてくださる時を待ち望む間にも、人生の様々な状況の中にあって、クリスチャンの共同体が神の愛に満ちた宣教を体現することを、黙示録は可能にしてくれるのだ。

新約聖書学者マイケル・ゴーマン氏が言うように、私たちは「未来の台本としてではなく、教会のための台本として」黙示録を読む必要がある。本稿で以下に示したいことは、黙示録を宣教的に読む方が、黙示録が書かれた形式と、扱っているコンテキスト、告知するメッセージ、そして約束している希望とに対して、ふさわしいということである。

世界を再考する

まず、私たちに与えられている黙示録の形式を見てみよう。聖書のすべての書物と同様に、「この文書の種類は何か」と問う必要がある。黙示録は聖書の預言書(黙示録1:3参照)と書簡(1:4、9)の両方の側面を兼ね備えているものの、何にもまして、啓示文学として知られる古代文書の形式に属する。ヨハネの最初の読者たちは、私たちよりもずっとこの形式に親しんでいたが、啓示文学は、幻、シンボル、そしてストーリーに満ちている。啓示文学は読者に想像力を働かせるよう迫るが、私を含め欧米人の多くは、想像力を駆使するのが苦手だ。

肝心なのは、黙示録のイメージやシンボルは、文字通りに受け取られることを意図していないということだ。となると、黙示録を解釈するために予言のレンズを使うことには、大きな欠陥があるとわかる。このレンズを使う人々は、たとえば、悪名高い「獣の刻印」(黙示録13:16–17)が、何か物理的に埋め込まれたものか、身体的刻印を指すに違いないと考えるかもしれない。

だが黙示録において、手や額にある獣の刻印は、神のしもべたちの額にある神の印(黙示録7:3; 9:4)とは真逆のものを表している。両方とも所有権の印であり、神と子羊に対する忠誠、あるいはサタンと獣に対する忠誠を象徴的に表す。目に見える焼き印ではなく、忠実さとライフスタイルとが、私たちが誰の名を身に帯びているかを示す。

黙示録の高度に空想的な幻は、終末の出来事を描写するものというより、この世界を再考するようクリスチャンのコミュニティに呼びかけるものだ。ヨハネは、当時のクリスチャンの住む世界が変革された後の幻を彼らに示すために、当時よく使われていた啓示的シンボルを用いている。この新しい見方によって、神がこの世界で何をしておられるか(神のミッション)、そして私たちが神の業にどう参画することができるか(教会のミッション)が明らかにされる。黙示録学者リチャード・ボウカム氏は、賢明にこう解説している。すなわち、ヨハネの幻は、人類史に対する神の最終目的を明らかにする。それによって神の民が、当時も今も、その最終目的から現在を再考することができるようになるためだ。事実上、ヨハネはこう言っているのだ。「神の終末という未来の地点と、神の天の王座という高みから見ると、これが物事の実際の姿なのだ」と。

一つ例を挙げよう。7章で、ヨハネはすべての部族、言語、国民から、大勢の群衆が神の御座の前に立ち、昼も夜も神を礼拝しているという幻を見る(9–17節)。これは単に、いつか「私たちが皆、天国に行った時に」このようになるという予測ではない。これは私たちが何者であるか、そして今なぜここにいるかを形作るための情景だ。私たちは人を分断させる勢力に取り囲まれているが、教会は、国民、部族、民族、文化を隔てる壁のないコミュニティとなるようにと、この幻は呼びかけている。この幻はまた、私たちに使命を託す。かの日の自分たちの姿を望み見つつ、すべての言語と国民から、神と子羊とを礼拝する聖歌隊に加わるように人々を招くという使命だ。私たちは神の未来という映画の特別試写会映像として、今を生きるのである。

コンテキストに沿って読む

もしヨハネが読者に対して、世界を違うやり方で見るよう招いていたとしたら、ヨハネが取り扱っていた社会背景を真剣にとらえる必要がある。そもそも黙示録は、ローマ帝国の小アジア地方における具体的な宣教状況下の、地域教会に向けた言葉として書かれた。これらの教会が置かれたところで、屠(ほふ)られ、よみがえった子羊という良い知らせを体現するようにと、諸教会に呼びかけている。

そして、その置かれた環境はたやすいものではなかった。クリスチャンは、最大限の忠誠を要求するローマ帝国の支配下で生きていた。その環境は、皇帝崇拝という市民宗教と、シーザーに正当性を与える土着の神々礼拝とが染みついた世界だった。都市をあげての祭りから個人的な誕生パーティーに至るまで、あらゆるものが皇帝を称賛する機会となった。皇帝崇拝は、小アジアの全住民との契約のようなものとして働いた。つまり、シーザーが要求するものを与えれば、神々は住民に平和と安全と繁栄をたまわる。要求に従わないことは、「非愛国的」で不忠実だとみなされた。抵抗するクリスチャンは、社会的・経済的疎外から残酷な死にまで至る迫害の脅威にさらされた(黙示録2:10、13)。

しかし、もっと大きな脅威が内側からわき上がってきた。それは、ローマ帝国のやり方に合わせようという誘惑だ。おそらくそれは、一般社会からの抵抗を避けるためだった。この内外からの圧力に対して、すべての教会が同じように対応したわけではない。苦難を前にして(スミルナやフィラデルフィアの教会のように)忠実であり続けた教会もあるが、大方はそうではなかった。たとえば、ペルガモンとティアティラのクリスチャンは、ローマ帝国の支配的な文化の中の偶像崇拝の慣習に一部譲歩した(2:14–15; 20–21)。サルディスとラオディキアのクリスチャンは、自身のうぬぼれと繁栄のゆえに自己満足の罪を犯していた(「自分は富んでいる、(中略)足りないものは何もない」黙示録3:17)。

そこで、これらの各教会は、黙示録の残りの部分を自分たちの状況に照らして読む必要があった。自分に敵対するすべての勢力を、最後には神が打ち負かしてくれるという確かな約束を必要としている教会もあった。しかし、それ以外の妥協的な教会にとっては、黙示録の残りの部分は電気ショックのように衝撃的だ。ヨハネは、悔い改め、苦難の子羊の生き様を自分の生き方とするようにと警告する。さもなければ、「子羊の御怒り」(6:16)に直面することになる。

同じことは私たちにも言える。黙示録をどう受け取るかは、私たちの霊的な状態とニーズによってある程度決まる。黙示録は今も、世界中のクリスチャン共同体に呼びかける。この世的な帝国のあり方を拒絶して、神とその愛に満ちたミッションを忠実に証しするようにと。

ヨハネは17〜18章で、バビロンのシンボルを真っ向から突きつける。これは、黙示録が当時の世界に対して、的を絞った言葉を発していることの典型的な例だ。ヨハネはこのシンボルを使い、照準を決然とローマに定める。バビロンはローマ同様に、「七つの山」の上に座し(17:9)、地を支配する「大きな都」(17:18)という特徴にも当てはまる。18章でヨハネが描き出しているのは、上流階級のぜいたくな嗜好(しこう)を満足させるために、ローマが帝国を経済的に搾取している情景だ。ローマの実際の輸入品リストの末尾に、ヨハネは「奴隷として売られる人のいのち」を挙げる(13節)。人間を単なる商品として扱うことによって、ローマは裕福になる。神がその民を、バビロンから「出て行きなさい」(4節)と呼びかけ、バビロン的な思考と生き方から離れなさいと命じたのも当然だ。

しかし、バビロンはけっして古代ローマに鎖でつながれてはいない。裕福でごう慢なラオディキア教会の人々に劣らず、私たちもこう問わなければならない。「今日、バビロンはどこにあるのか?」「私たちにとって、バビロンから出て行くとはどういうことか?」私たちはどこで、消費主義という偶像に屈服し、弱い人々を搾取して権力者に利益をもたらすようなシステムに参画しているのだろうか?これらは単に個人の倫理の問題ではない。私たちを注視している世界に対する、私たちの証しでもあるのだ。

正しい焦点を維持する

神のミッションという光に照らして黙示録を読むと、預言者の衣装を身にまとって、ヨハネの幻が終末のシナリオにどう当てはまるかを見きわめなければいけない、という重荷から解放される。代わりに、黙示録のストーリーの大きなテーマに集中することができる。それは、神がこの世界に命を与えるような目的を持っておられるということだ。その中には、黙示録の最大のシンボルである天の王座と屠(ほふ)られた子羊が登場する。

このシンボルは両方とも、この書物の神学的な核心部分である4章と5章において、最も明確な焦点を当てられている。その個所で、神の王座は、新約聖書学者ユージン・ボーリング氏の言葉を借りれば「宇宙管制センター」を象徴している。もし神が被造物のすみずみまで支配しておられるなら、他のいかなる勢力も、人間であろうと霊的勢力であろうと、すべての人と全世界とを贖(あがな)うという神の目的をそこなうことはできない。

神はどうやってこの宇宙大の使命を達成するのだろうか?大方の予想を裏切って、なんと傷ついた子羊によってだ!屠(ほふ)られた子羊は、黙示録の決定的なシンボルとなり、審判の幻を含めて、黙示録全体を理解するためのレンズともなる。この子羊は、まさに苦しみ、死ぬことによって、すべての部族と国民を贖(あがな)うための神の壮大な計画のとびらを開ける(黙示録5:9–10)。

このシンボルが私たちに告げるのは、単に、十字架につけられたイエスによって、神はすべての被造物に回復をもたらすということではない。それがどのように起こるのかも示している。神のミッションは子羊に似ている。神はすべての反対勢力を打ち破るが、それはシーザーがしたよう残虐な力や暴力によってではなく、みずからを与える愛によってだ(黙示録12:11)。今日、クリスチャンは神の目的を実行するために、強制や、他の人々を「自分とは違う」とみなす誘惑に駆られることがある。たとえば、「この国を神のもとに取り返す」という大義名分を掲げたくなることがある。しかし、そのような圧力をかける手法は、全世界の礼拝の中心として、流血の子羊を据えている書物とは相容れない。

希望はどこに

学校での銃乱射事件。危機にある地球。人種差別的な攻撃。命を危険にさらす疫病。無分別な戦争による大量の難民。当然ながら、未来を悲観する思いに陥るクリスチャンも多い。

黙示録は、圧倒されるような状況のただ中にあって、本物の希望を提示する。だが、その希望は、天国に携挙されてこの世とその苦難を逃れることにあるのではなく、単に「死んだら天のふるさとに帰れる」という約束にあるのでもない。ヨハネが描く新しいエルサレムというクライマックスの幻(黙示録21–22)を、神のミッションという光に照らして読むと、現在を根源的に形づくる未来を見ることができる。それは、傷ついたこの世界に希望をもたらす。

ヨハネが描く新しいエルサレムは、神のこの世界に対する究極的目的を明らかにする。それは、神の臨在が地上に充ち満ちる時、人類と全被造物が繁栄することだ。しかし、新しい被造物はその光を現在に向かって照らし、新しいエルサレムの命を、バビロンの街のただ中で体現するようにと私たちに迫る。新しいエルサレムの希望とはどのようなものか?2つの例を挙げよう。

第1に、新しいエルサレムとは癒しの共同体だ。新しい被造物の使命は、「諸国の癒し」(黙示録22:2)を実現に至らせることだ。罪と悪とが人類に負わせたあらゆる傷口に、癒しの力が触れるようにすることだ。しかし、未来の予告編として生きるために、私たちは今日、世界の国々のただ中にあって、希望と癒しの共同体になるように迫られている。私が教えた学生の一人は、ドイツの彼の故郷で、そのような共同体のネットワーク立ち上げを支援した。彼らは数々の方法で難民、都市部の青年、高齢者、ホームレス、無宗教者に希望をもたらしている。最近では、エマヌエラという名の性労働者のために介入し、どうしても必要な健康保険書類の記入を手伝い、借金カウンセラーを紹介し、無条件の愛と友情という、さらにすばらしいものまで彼女に与えた。そのような行為を通して、新創造はその街に入り込んでいるのだ。

第2に、ヨハネは回復された被造物を思い描く。黙示録は、新しいエルサレムが降ってきて、造り変えられた地と一体になる様を描いている(黙示録21:2、10)。来たるべき都市が表すのは、生態学的調和と全被造物の繁栄だ。神がこの地のために未来を思い描いておられるなら、環境に対する莫大な脅威や、世界で最も影響を受けやすい人々に対する環境被害を無視することはできない。

私たちの応答は、以下を含むことが必須である。すなわち、自分たちのライフスタイルが神の世界に与える影響を考慮して、ライフスタイルを再考するだけでなく、被造物のために擁護活動を行うことは、正当な宣教の使命であり、祈りと支援に値すると認識することだ。たとえばアロシャ・インターナショナルは、ガーナのアテワの森などで目に見える成果を挙げている。そこでは採鉱、不法な伐木搬出、農場浸食などにより、地元の膨大な生物多様性が脅かされている。同時に同団体は、500万人のガーナ人が安全な飲料水を日常的に確保できるよう支援している。黙示録は、人間と被造物のために希望の仲介者となるよう私たちを招いている。

私たちは黙示録のミュートを解除しなければならない。予言のレンズを通して読むことに留まっているなら、黙示録という書物のメッセージを曖昧にしてしまう。それは、当時も今も宣教に取り組む教会に向けての、心を探るような、希望に満ちたメッセージだ。神の愛に満ちた宣教の光に照らして黙示録を読むと、この書物の現代に対する呼びかけを聞くことができる。その呼びかけは、礼拝と証しとの対照をなす共同体となれ、屠(ほふ)られた子羊のパターンを体現するようになれというものだ。バビロンの消費主義、不公正、偶像崇拝という居心地のよい快適さを捨て去るようにという呼びかけだ。すべてを新しくするという神の目的に熱中して、未来の前味として生きろという呼びかけである。

ディーン・フレミング氏は、ミッドアメリカ・ナザレン大学新約聖書・宣教名誉教授。著書に『Foretaste of the Future: Reading Revelation in Light of God’s Mission(未来の前味:神の宣教の光に照らして黙示録を読む)』がある。

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