Culture

「御霊の実」という静物画

人間であるとは、美の創り手であること、そして正義の管理者であること。

A still life arrangement of fruit, in various states of ripeness against a black background.

Christianity Today July 14, 2025
Illustration by Daniel Forero

南フランスの移り変わる光の下で描いていた画家ポール・セザンヌは、かごに盛られた果物の静物画というシンプルな構図に、何度も取り組んだ。果物が常に変わっていく現象を、彼は考えていた。目の前の静物は一瞬ごとに変化する。朝のりんごは、晩にはしなび始める。1日の間に、日射しが部屋のこちらからあちらへと動き、かごの影は変化する。

移りゆく一瞬を固定化しようと試みるのではなく、静止した時間の中にある想像上の、腐敗しない果物をとらえるのでもなく、セザンヌは一つの画像の中に時間と空間そのものを盛り込もうとした。彼の絵画は具体的な形だけではなく、リアリティの本質(エッセンス)に関するものだ。それは、見た目の奥にあるものを追い求める過程だ。彼の絵画の果物は、変動と光の中にあって、熟しつつあり、何かになりつつある。それは、果物の本質であり、深層にある現実を見えるかたちで反映する。

同じように、神の愛も単純化できない。神は愛である。その愛は永遠で、ぜい沢であり、無限だ。この愛は、私たちがキリストにとどまる時、私たちのうちに見えるかたちとなる。その愛と共に、その愛のうちに、その愛を通して、私たちは創造するよう招かれる。それは私たちの中で、「御霊の実」という別の種類の果実として育つ。

御霊の実は、ガラテヤ人への手紙5章のリスト(しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。)(22–23節)の中から、好き勝手に選べるというものではない。御霊の実は、セザンヌの果物のように、一つの多面的で有機的な完全体だ。御霊は私たちのうちに、何ともすばらしいものを育む。それは、こころの故郷を求め、真の自己を見つめ、ありのままに愛され受け入れられる、その私たちの切望の回復だ。こころがケアされることによって心が満たされる。それは、贖(あがな)われた人間として新たにされる過程である。

アーティスト(マコト)として、また弁護士(ヘジン)として、私たちは聖霊の実が美と正義とどう関係するか、そしてこの二つが互いにどう対話するかを思い巡らす機会を得てきた。

ポール・セザンヌの静物画 1890年

自分たちの神からの召しをとおして、美と正義とは、神の愛があふれ出た愛の実だと私たちは気づいた。つまり、新たな被造物の到来を告げるための、宣教にとってきわめて重要な教会の応答である。

美と正義は私たちに教える。荒れ地でどのように神の愛の管理者となれるのか、利便性を超えた意義を抱え、先の見えない苦難のただ中で希望を持ち続けるにはどうしたらいいか。美と正義はこの世のノルマに対しての反動であり、取引中心のこの世界を惑わすだろう。しかしその惑わしは、世のうちに潜む偽りを暴く。人間であるとは、単に生きているというだけではなく、神の御姿、つまり私たち一人ひとりの内にある神の特別なひらめきを帯びることだと、美と正義は宣言する。

セザンヌが、果物に当たる移ろいゆく光を眺めたように、私たちは、人類に必須の栄養である美と正義の果実を眺めるよう招かれている。


人身売買から救われた南アジアの若い女性が、こう尋ねられた。「自由になった今、何が欲しいですか?」一瞬の沈黙の後、彼女はこう答えた。「私の美しい姿に戻りたいです」。

彼女の答えは、胸に刺さると同時に聖い。幼い時から、彼女はとてつもない痛みと苦しみに耐えてきた。それでも、彼女が求めたのは復讐(ふくしゅう)でも解放でもなかった。むしろ回復を願い、彼女は正義の核心にあるもの、つまり美への切望を口にしたのだ。

このあこがれは、この世の野望よりも奥深い。それはエデンの園の記憶であり、愛をもってこの世界を創った三位一体の神への渇望である。この神は、私たちを神のかたちに形成し、被造物が持ちつ持たれつ繁栄するところに参画するよう私たちを招く。それは、私たちを創られた創造主によって、「tov」(「良く、また美しい」という意味のヘブル語)と呼ばれることの記憶である(創世記1:31)。それは、私たちが本来あるべき姿のとおり、愛に輝いて、もう一度完全に人間となることへの切望である。

この若い女性が通ってきた不正義は、あらゆる不正義と同様に、不正義の原点に始まる。つまり、人間がエデンの園で神に対して行った不正義だ。私たちは神の園から自分のものでないものを盗んだ。豊富な恵みはすでに私たちに与えられていたにもかかわらず。神のようにまでなりたいという堕落した願望によって、いのちの与え主との親密さは断ち切られ、神が“tov”として創られたものは損なわれた。私たちの罪の性質は、すべての豊かな関係を破壊した。神と、人間同士と、そして被造物との関係を。

ほどなくして、第2の大きな不正義が行われた。カインが弟アベルを殺した。その瞬間から、暴力、独裁、裏切りが歴史に根付いた。人類は不正行為にはしり、人の心は支配、所有、破壊したいという欲望によってかたくなになった。美はそのような不正がはびこる中でしおれ、血が地面に染み込んでいった。

私たちは今、加速する時代に生きている。その中で人間の神聖さはデータ、アルゴリズム、計量の下に埋もれている。私たちの魂は豊かに培われるというより、生産性と利益のために利用されている。私たちは役に立つか、それとも人目に付かないかだ。計量されるだけで、見つめられることはない。他人を見る時、欠乏的に考え、あれかこれかの二者択一に傾きがちだ。そして、他人を「敵」と決めつけ、よそ者をスケープゴートにする。堕落による粉々の廃墟の中で、私たちは正しく見る力をすっかり失ってしまった。

イエスはヨハネの福音書でこう警告した。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません」(10:10)。今日、盗人はその目的を達したように見える。この悲惨な状況から誰が私たちを救ってくれるだろうか。

聖なる義のために打ち砕かれたイエス・キリストは、私たちのために、神からの憐れみと神との親密な関係に至る門となり、新創造に至る扉となった。彼はその砕かれた体に私たちの罪のすべての重荷を負い、尊い血を流し、私たちが受けるべき怒りを受けられた。その傷は色鮮やかな贖(あがな)いの恵みの美しさに輝いていた。

そういうわけで、人類の腐敗の対抗手段は、イエスが与える贖いの門を通り抜け、主の恵みを受け入れることだ。彼のうちに、美と正義は相まみえる。それは「御霊によって歩む」ことであり、「キリスト・イエスにつく者」のうちに表れる実を結ぶことだ(ガラテヤ5:16、24)。キリストの傷のうちに癒やしを求め(1ペテロ2:24)、私たちの傷跡によって神の恵みという芸術作品を示すようになることである。

2020年に私たちが「アカデミー金継ぎ」を創設して以来、金継ぎという日本の芸術は、欧米のキリスト教一般文化の中に広く知られるようになった。割れた陶器、「傷」を金粉と漆で継ぎ合わせる作業に内包された福音の比喩に、多くの人が共鳴している。

だが、午後1回のワークショップや、説教の中の短いたとえ話ではとらえきれないのが、この作業にかかる膨大な時間だ。修復作業に入る前に、金継ぎ職人はまず割れた器の破片を眺める。時には何年も眺めて、どうやって再び一つの器にするか想像を巡らす。この心に思い描く最初の期間を経て初めて、作業が始まり、ひび割れは癒された世界の風景に変えられる。

仮にもし、金継ぎ職人のように、今日私たちができる最も根本的なことが、ペースを落として、世界のひび割れをみつめることだとしたらどうだろう。仮に正義が、単に判決を下すことではなく、忍耐と気配りと美をもって作っていくものだとしたらどうだろう。

私(マコト)の絵画製作には長時間のプロセスが伴うため、私の作品は「スローアート」と呼ばれる。私は貝殻、鉱物、プラチナや金などの貴金属といった、粉砕された日本画材料を使う。それらを手で、動物の皮から作られた日本の接着剤である膠(にかわ)と混ぜ合わせる。その前にも、特注塗料をキャンバスに塗り、多色のレイヤーを作っていく。

私の作品作りに対する気配りは、私の祈りでもある。美をつくり出すのは、創造主にならうことだと認識しつつ作業する。一瞬注意を向けられるだけの空虚な見世物ではなく、長く、愛をもって眺めてもらえるものを目指す。そのような美は、表面的で商業的なものを超越したところで共鳴する。それは、生成的に世に広がってゆく贈り物だ。

イレイン・スカリーはその著『On Beauty and Being Just 』(美と正しくあることについて)の中で、美は私たちを目覚めさせて知覚的誤りに気づかせ、正しく見ることを私たちに教えて正義を生み出すと語る。「これは美しい」(英語での“Fair”とは正義と美を両方意味する)と言うことは、注目と保護に値するものについて主張することだ。そして同時に、「これは正しい」と言うことは、美しいものは保護され、愛されるべきだと主張することだ。

詩篇33篇に「主は正義と公正を愛される。主の恵みで地は満ちている。」(5節)とある。聖書が描く正義とは、新創造という神の愛の業である。それは懲らしめるのではなく、回復させる。壊れた器または人は、捨てられずに修繕される。美と正義は一緒になって人生のかけらを再生し、「あなたは忘れられていない」と言う。その再生の業は、魂が恥も恐れもなく「私は再び“tov”になった」と言えて初めて完成する。

美と正義は、犠牲を伴う想像から生まれ、御霊とともに歩む中で実現される。それは土壌で、そこに御霊の実が根を張り、成長し、被造物の現在の栄光と、将来明らかにされる栄光とに照らして、全てを修繕する(「善」をもって紡ぐ)過程である。

追放とひび割れ、イエスの傷を通し、美と正義は私たちを力づけ、荒廃のただ中で何が芽生えるか、破片が一つにされたらどう見えるか、想像させてくれる。

私 (ヘジン)は御霊の実が、全く思いがけない場所で豊かに育つのを見てきた。それはインドのかつての娼館だ。地元の牧師(彼はスラム牧師と呼ばれている)と友人になった時、私たちは何代もにわたる暴力と恥の現場であったその場所に、御霊とともにその暗闇に足を踏み入れることにした。

美の想像力、豊かな眼をもって、私たちは朽ち果てた廃墟の向こうに、正義にいろどられた未来を見た。娼館で生まれた子どもとその母親のための、安全で楽しい、新たなスタートの場所を。2018年、この建物はサハシー・エンバーズ・センターとなった。これまでの間に、おびえた幼い子が活力に満ちた若者へと花開くのを見てきた。恥じ入った母親が、再び背筋をまっすぐにし始めるのを目にしてきた。セザンヌの静物画のように、一人ひとりのうちに働く神の愛が、あらゆる単純化に抵抗し、屈折した光を崇める経験をしてきた。

私たち夫婦が最近このセンターを訪れた時、私(マコト)はそこで中学生向けのアートクラスを教えた。生徒たちに紙を配り、J・R・R・トールキンの短編『ニグルの木の葉』の筋を語った。語りながら、大きな画用紙に裸の木の曲がりくねった線を描いていった。ニグルは生きている間に1本の木の絵を完成させることができなかったが、神は憐れみによって、ニグルが描いた1枚の葉を、「独特な魅力」を持つものとして、新創造の一部にしてくださった。

私は生徒一人ひとりに、好きなスタイルで自分独自の葉を描くように言った。でき上がったら、私が描いた木に葉を糊で貼り付けるように招いた。裸の枝が覆われていくにつれ、生徒たちはその木がみごとに美しくなるのを目のあたりにした。全員が木にいのちをもたらすために共同作業したのだ。このコラージュが映し出したのは、美と正義が生徒一人ひとりの葉を通し人生に神の国の癒やしをもたらしていく様だった。

サハシー・エンバーズ・センターは、唯一の真のアーティストで弁護者である神が、今この瞬間も働いておられる場所の一つにすぎない。神は私たちを召されたところで、想像と修復と製作という神の復活の業(神の「アート」)に参画するよう、私たちを招いておられる。

御霊によって歩く中で、私たちの人生というギャラリーの壁を神が満たし始めるのを、見る眼を持てるように。ここには、かつての娼館にいる子どもたちが作ったコラージュ、これは金継ぎされた器に走る金色の線。こちらにはもう一度美しくされた若い女性の肖像画、こちらには、神の御子の傷跡。その御子をとおして神はすべてを新たにされる。

神の愛には不屈の美がある。神の愛の中で正義は私たちの人生に流れ込む。そして、その愛を見つめるうちに、美と正義は別々ではなく、一つに織り上げられていることに気づく。創造というキャンバスの上に分かちがたく、持ちつ持たれつしながら、ハーモニーを奏でているのだ。

ヘジン・シム・フジムラはシム・アンド・アソシエーツ代表弁護士、アカデミー金継ぎ会長、エンバーズ・インターナショナルCEOである。マコト・フジムラは一流の現代美術家であり、受賞歴を持つ著述家でもある。フジムラ夫妻の共著『Beauty x Justice: Creating a Life of Abundance and Courage』(美と正義:豊かで勇気ある人生の創造)は2026年4月にBrazos Pressから刊行予定。

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