最近、うちの子ども達の遺伝学的な親のことを友人から問われた時、私は彼らの「本当の父親」について少し話した。「本当の父親」と言った時、自分ではっとしたが、すでに遅かった。
胚養子について、私はすらすらと説明できる。このことについてはもう何度も話してきたので、誤りを犯すと自分にびっくりする。科学に驚嘆してか、はたまた単なる目新しさのためか、うちの子ども達は二人とも胚養子だと聞くと、たいていの人はもっと詳しく知りたいと興味を示す。
「それってどういうこと?」というのが、いちばんよくある反応だ。妻と私はこの質問に喜んで答える。なぜなら、私たち夫婦は胚養子をとてもいいと思うようになったからだ。
数年間、子どもを持つことを願い、祈り、試みたが不成功に終わった後、私たちには問題があることを知った。体外受精のような、体の負担が比較的大きい不妊治療を避けようと決めた時、残された選択肢は少なかった。それまで容赦のない失望と落胆へとつながってきた道を、引き続き歩いていくのか、それとも養子縁組へと方向転換するかの二択だった。その頃、世界的疫病がまん延し、それ以上の不妊症治療は実質的に延期されたため、私たちは決断した。新たな道へ進む時が来たのだ。
これは容易な決断ではなかった。私たちには悲しみ嘆く時間が必要だった。若い時は、子どもを持つのはごく自然にできることだと考える。子どもは自分に似ているだろうと当然のごとく思う。そして、そんな想定が実現しないのは大きな喪失感を伴うものの、養子縁組に方向転換した時、私たちは数年ぶりに再び希望を持ち始めた。
妻と私は二人とも計画志向だ。問題をいろいろな角度から検討し、詳細を分析するのを好む。だが、私たちが調査を始めてまもなく胚養子を知った時、すぐにこれは私たちに合っていると感じた。それから1年たたないうちに、妻は妊娠した。今日、私たちには2歳の息子と、今年10月に生まれた娘がいる。
どんなかたちの養子縁組にせよ、それについての会話はぎこちないものになりかねない。「適切な」言葉を使おうとし、失礼にならないようにと願う。まるで戦場で地雷を避けようとするかのように、用心しながら進む。それでも誤りは起きるし、時折うちの子ども達の遺伝学的な親について尋ねる人がいる。
これを聞かれても、私は気にしない。私が父親であることは作り話ではなく、私が子ども達の本当の父親であることも私は知っている。だが、養親なら誰でも経験するように、うちの息子が普通とは違って、別の遺伝学的父親を持っていることについて、私は時折おかしな感覚に襲われる。
親としてのアイデンティティに苦しむというのは、養親にとって通常当たり前のことだ。生みの親、生物学的親、そして養親という一般用語は、物事の明確な説明が必要な場合には助けになる。だが、胚養子はそう一筋縄ではいかない。
私の妻は、うちの子ども達の養親であり、生みの親でもある。妻は子ども達の遺伝学的親ではないが、通常の妊娠と同じように、自分の子宮内で胎児を育んだ。その間、妻は子ども達と情緒的絆だけでなく、生物学的絆も結ぶことができた。これはすばらしく、美しいことだと私は思うし、その経験は何にも代えがたいものだと思う。だが、妻とは違い、私は子ども達と遺伝学的、生物学的、さらには出生についても、つながりがない。
ほとんどの養子縁組の場合、子どもの「本当の親」について尋ねられると、父親と母親は同じような不安感を互いに共有する。しかし、私のような胚養子の父親は、親としてのアイデンティティについて一人きりで格闘し、孤立感を味わいかねない。
私は考える。ヨセフも同じような葛藤を味わったのだろうか、と。
うちの息子が生まれて間もなく、私は使徒信条の一節にはっとした。何百回となく使徒信条を読んできたが、この時、ある一節が脚を生やして紙面から飛び出してきた。イエスは「聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ」たのだ。
胚養子についての自分の経験がまちがいなく影響して、「やどり」とか「生まれ」という言葉を新鮮なかたちで聞けるようになったのだろう。字義通りに読むと、使徒信条はイエスが聖霊(のみ)によってやどり、マリアの子宮に運び入れられ、やがてマリアから生まれたと示唆しているように受け取れる。それが本当だとすると、イエスは史上初の胚養子だったのだろうか。そうとは言い切れない。
『Women and the Gender of God(女性と神の性別)』の中で、聖書学者で牧師神学者でもあるエイミー・ピーラー氏は、キリスト教の長年の伝統的見解に注目する。それによると、マリアはイエスに遺伝物質を供給したという考えが支持されている。これは、神の力と臨在によって成し遂げられた奇跡的妙技だ。ニカイア信条の表現によると、イエスは「聖霊によって、おとめマリアより肉体を取っ」た。そういうわけで、マリアはイエスの生みの母であり、遺伝学的母親でもあったと考える十分な神学的理由が存在する。
だが私は初めて、イエスの降誕ストーリーと自分自身の経験とのつながりを見出した。マリアはイエスと豊かな生物学的絆を共有するが、ヨセフにはそれがない。そのことは、私とヨセフとの共通点だ。
ではヨセフは自分のことをどう思っていたのだろうか。自分はイエスの「本当の父親」なのかと思案しただろうか。そもそもそんなことを考えたことがあっただろうか。
マタイの記録によれば、ヨセフは当初の不安にもかかわらず、マリアと共にい続けたことを私たちは知っている(1:18–24)。ヨセフが疑いを抱いたのを責めることは、私たちにはまずできないが、離縁をひそかにしようとしたと記されていることから、彼の人柄を垣間見ることができる。やがて神の促しのおかげで、彼は最終的にマリアと結婚した。
だがその後、彼のストーリーはどちらかというと表舞台から退いていく。聖書とキリスト教の伝統とにおいて、ヨセフという人物は妻の陰に隠れるようになる。
マリアの信仰は、あの有名な詩のような祈り「マグニフィカート」(ルカ1:46–55)を通して輝き出る。彼女は教会の主要な信条において、イエスの母として永遠に地位を保証されている。後の神学的伝統において、イエスを胎内で育んだという栄誉のゆえに、「生神女(しょうしんじょ)」という輝かしい称号がマリアにおくられている。以来、あらゆる教派のクリスチャンが世代を超えて、マリアを祝福された方と呼び、大いなる敬意を払ってきた。それは正しいことだ。
だが、それに比べてヨセフについては、あまり語られることがない。
あいにく聖書は、父親としてのアイデンティティについてヨセフがどう考えていたか、あからさまに語ってはいない。マタイによる福音書1章にある出来事以外には、この状況全体について彼が何を思っていたか、何もヒントはない。しかし、ヨセフの父親としての役割を新約聖書著者たちがどう見ていたか、いくつか手がかりはある。
福音書の最初の方で、ルカはイエスが「ヨセフの子と考えられていた」(3:23)と記している。イエスの奇跡的誕生において、ヨセフは何ら生物学的役割を果たしていなかったという事実を強調したかたちだ。だが四福音書は、ヨセフの父親としての役割についてためらわずに記している。
マタイにおいて、ヨセフは「マリアの夫」(1:16)として登場する。そのこと自体、イエスの生涯におけるヨセフの地位を確固たるものにする栄誉である。他の個所を見ると、ルカはヨセフを単にイエスの「父」と呼び、マリアとヨセフをイエスの「両親」としている(2:33、41)。マリアはまた、イエスに話しかけた時に、ヨセフをあなたの「お父さん」(48節)と呼んでいる。同じように、ヨハネはイエスを「ヨセフの子」(1:45)と呼ぶ。したがって、ヨセフは息子の誕生に生物学的・遺伝学的役割は果たさなかったものの、それ以外のあらゆる点でイエスの父親だった。
イエスの系図には、さらに確固たる証拠がある。マリアもダビデの家系だと考える人々(アウグスティヌスなど)もいるが、マタイもルカも系図を記す際に、イエスの出自をヨセフの家系から辿ることを選択している。もちろん、当時は出自を男系で辿ることが一般的だったが、状況から考えると、この選択はやはり意味あることだ。
マタイはその福音書の冒頭で、イエスを「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリスト」(1:1)と呼んでから、そのことはヨセフの家系を通してであると示している。天使がヨセフに現れ、マリアと共にい続けるようにと促した時、天使は彼に「ダビデの子ヨセフよ」(20節)と呼びかけている。この言葉は単に家系だけのことを意味しない。イエスに適用された場合、ダビデの子という称号はメシア的な意味合いを帯びる。つまり、神の支配を天だけでなく地上にもたらすダビデの子孫、すなわち王の血筋を引く代理人に関する、神の約束の成就がイエスだったのだ(サムエル2 7:12–16)。
ヨセフに現れた天使はまた、息子の名づけをするという、通常父親に与えられる名誉をヨセフに付与する(マタイ1:21、25)。この父親的行為の重要性を、古代教会の説教者ヨハネ・クリソストムは見逃さなかった。彼はまるで天使がヨセフに語りかけているかのように、以下のように記した。
胎児が聖霊によってやどったからといって、この新たな神の摂理の働きにおいて、あなたの役割は何もないと考えてはならない。受胎において、あなたは何もしなかった。あなたはおとめに触れなかった。しかし、私はあなたに父親に関するものを与えよう。生まれてくる子を名づけるという名誉をあなたに与える。ヨセフよ、あなたは彼を名づける。この子はあなた自身の子ではないが、あなたは彼に父親としての愛情を示すように召されているからだ。だからこの機に際して、彼に名前を与えるこの瞬間において、あなたは生まれてくる子と特別な関係にあるのだ。
聖書はイエスの育ちについてあまり語っていないので、イエスの誕生以後の生活において、ヨセフがどんな役割を果たしたか、私たちにはほとんどわからない。しかし、ヨセフはイエスの育ちを助けるために十分長い間、その生涯を通じて共にいたと合理的に推測できる。
イエスの働きのある時点において、群衆はこう言い交わした。「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。」(ヨハネ6:42)。ここから推測されるのは、その当時ヨセフはまだ存命だったか、あるいは少なくともイエスが成人するまで存命だった可能性が高いということだ。これらのことが指し示しているのは、イエスの生涯におけるヨセフの役割は、取るに足りないものでもなければ、形式的でもなかったという事実だ。ヨセフはまさにイエスの「本当の父親」だったのだ。
ヨセフと同じく、私もうちの子ども達の懐胎には何の役割も果たさなかった。それでも、私は父親に関係するものを与えられた。私はうちの子ども達に「父親としての愛情を示」し、彼らと「特別な関係にある」ために召されている。
だが、親のアイデンティティについて話す時、別のことが抜け落ちる。イエスは何よりも前に、神の子である。父に対するキリストの関係は特別なものだが、私たち皆がまねするように創造されている関係でもある。何らかの人間の親に帰属する以前に、私たちはまず第1に神に帰属する。神は私たちを創造し、私たちの生命と存在とに究極的な権利を持っている。
私は思いめぐらす。養親が親としてのアイデンティティに苦しむ一つの理由は、親業についての神学に欠陥があるからではないか。それは、神の役割が明らかに不在であるような神学だ。「うちの子」とか「お宅のお子さん」と言う時の日常的な言葉遣いに、このことは反映されている。
こうした言葉遣いは間違ってはいないし、実際的に必要な場合も多いが、親業に関する私たちの考え方の中に、所有権という有害な概念が持ち込まれる可能性があり、誤った方向に行きかねない。たとえば、自分の子をコントロールしようとする威圧的な親や、子どもを通して代理的に生きる親のことを考えてほしい。あるいは、もっと極端な例を挙げれば、C・S・ルイスの『天国と地獄の離婚』における母親のつきまとうイメージを思い浮かべてほしい。その母親は息子をどうしても地獄に連れて行くと言い張る。なぜなら息子は「自分のもの」だから。
哲学者のマイケル・W・オースティン氏は、所有意識を中心とした親業モデルは不十分だと指摘する。その著『Wise Stewards(賢いしもべ)』の中で、自分の子との関係を考える時、よりすぐれた概念として管理者を提案する。私たちは自分の子を所有していない。自分の子は実は「自分のもの」ではない。むしろ彼らは、オースティンの言葉を借りれば、「神から私たちに一時的に貸し出されている」のだ。
この微妙な、おそらく感知できないくらいわずかな思考転換を受け入れると、私たちの子育ての仕方が変わるかもしれない。だが、少なくとも親としてのアイデンティティの枠組を立て直すことになるはずだ。父親と母親は、所有権ではなく人間関係における連合体だ。クリソストムの言葉を借りれば、親であるということは、子との重要な関係にあるということだ。
遺伝学的な親の役割は、当然軽微なものではない。むしろ根本的に重要だ。だが、父親と母親は何よりもまず、深い関係性を表す用語であるから、遺伝物質をどの程度供給したかは、どの程度親であり得るかには何の関係もない。
事実、妻と私は時に、子ども達が生物学的に私たちの子ではないことを忘れ去る。子ども達との関係はごく自然だと感じる。本当のことを言えば、私たちの子でないとは想像もできない。
研究者として、私はこの不妊治療と胚養子の歩みを神学的レンズを通して見ないわけにはいかない。felix culpa(ラテン語で「幸運な罪」)という考えが繰り返し思い浮かぶ。これは人間の原罪が究極的には良いことだったという古くからの理論だ。なぜなら、それが贖罪(しょくざい)につながったからだ。人間となり、私たちの身代わりとして死に、復活により死に打ち勝ったという神のストーリーは、つまるところこれまで語られた中で最も美しいストーリーだ。
正直に言うと、この考え方にはあまり惹かれたことがない。もちろん、贖罪のストーリーは美しい。だが、神が堕落なしに語ることのできたであろうストーリーも美しかっただろうと思う。言い換えれば、神は美しいストーリーを語るために、人間の間違いを必要とはしないのだ。
私たち夫婦の苦しみに満ちた不妊治療は、この世界が物理的に壊れていることを反映している。友人から赤ん坊誕生の知らせを聞くたび、妊娠の試みが失敗に終わるたび、そして子どもがいないまま新年のカレンダーをめくるたび、新たにナイフでえぐられるような気がした。しかし、子どもを持つまでのつらい旅路を振り返る時、幸運な罪について考えざるを得ない。私たち夫婦のストーリーは、自分で計画したストーリーではない。それでも、元々の計画が不首尾に終わったことを、私は神に感謝する。なぜなら、これ以外の人生など想像できないからだ。
同じように、ヨセフがマリアの妊娠を知る前、二人の生活を思い描いた時、聖書のストーリーを想定していたはずはない。しかし、神に与えられた父親の役割を受け入れることによって、ヨセフは世の救い主を育てることに一役買った。これは大した遺産である。
すべての親にとっての良い知らせは、こうだ。子どもに対する親の愛は、究極的には私たちに対する神の愛に根ざしている。それはどんな生物学的絆よりもはるかに強い。
Derek Kingはケンタッキー大学キャンパスのキリスト教研究センターであるルイス・ハウス所属の学者である。
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