2023年2月8日、アズベリー大学の50分間の定期学内礼拝が、16日間に及ぶ出来事となり、世界中の注目を浴びた。
その朝、私は自分のオフィスで礼拝にオンライン参加した。説教者のメッセージの後、学生の賛美チームが終わりの賛美を捧げた。私はコンピュータの前を離れ、次の会議に向かった。その後、昼食に向かおうとしていたところ、妻がメッセージを送ってきた。何人かの学生がまだヒューズ講堂で祈り、礼拝を続けているという。
そこにさらに学生がやって来た。そして、さらに多くの学生が来た。
その後の2週間余り、本学指導陣が「ほとばしり」と表現したものは飛躍的な増大を遂げ、推定5万人の訪問者が、ケンタッキー州中央部のこの信号機2機しかない街に押し寄せた。訪問者は同時放送サイトにもあふれ出し、近隣の神学校や地元の諸教会がそのホストを務めた。人々は本学キャンパスの広々とした芝生の冷たい地面にひざまづき、祈り、賛美を捧げた。
アズベリー大学は、この出来事に言及する250余りのポッドキャスト、1,000本余りの記事、数十の説教および会議セッションを見出した。100社余りの地元、全国ネット、海外のメディアが本学を訪れた。#AsburyRevivalまたは#AsburyRevival2023に関連して、およそ2億5千万件のソーシャルメディア投稿があった。これほどあらゆる年代、背景、国籍の人々が、心を揺さぶられ、何かを求め、悔い改め、しかも1つとされているのを見るのは私にとって初めてだった。
この出来事の間ずっと、インターネット上では、リバイバルとは何か、アズベリーでの出来事はリバイバルと呼ぶべきなのか、という議論が渦巻いていた。当然ながら、アズベリーでの過去の複数のリバイバルとの比較がなされ、特に1970年のリバイバルとは盛んに比較された。それらは正当な議論だ。リバイバル、刷新、覚醒といった言葉は、それぞれ微妙に異なる神学的・歴史的意味合いを持つ。
究極的には、昨年2月の出来事の長期的影響のリストを作成し、あれはリバイバルだったのか、それとも何か別のものだったのかを判断するのは、歴史家に委ねられるのかもしれない。現時点で、わずか1年を経て振り返ってみて、私としては「ほとばしり」という言葉が、様々な理解を包含する幅広い表現であり、私たちの眼前で繰り広げられた出来事の性急な定義を回避する表現だと思う。
ただ、あの16日間の後、私が非常に明確に理解するようになった1つのことがある。それは、表面的なキリスト教に対する修正勢力としてZ世代が台頭しているということだ。表面的なキリスト教は、私たちの時代の宗教的様相を際立たせ、教会離れの動きを特徴付けてきた。
なぜそうなのかを理解するためには、まずZ世代がどういうところを通ってきたかを理解する必要がある。昨年、メディアのインタビューの時、私はしばしばこう示唆した。我が国の社会・経済・情緒的重荷、そして教会自体の中にある道徳的破綻を、若い世代は鋭く感じとっている。「今以上の何かに対する飢え渇きがあります」と私はあるジャーナリストに語った。
私のコメントについてどう思うかと、学生たちに尋ねた。ある学生は、私の言わんとするところには同感だが、自分なら違う表現をすると言った。「今以上の何かを欲しているわけではなくて、今より少ないものを欲しているんです」と彼は語った。自分の同世代が精製されたもの、本当のものを求めていることを彼は指摘したのだ。現代の混とんと力関係のただ中で、錨(いかり)となるものを求めていると。
学生たちはいわゆる「宗教」にはそれほど関心がなく、むしろ生きて働く信仰に関心を持つ。我が国には意味の空白地帯があるのは明白で、それが広範な霊的飢え渇きを助長している。
イラク戦争の元衛生兵で、アズベリー大学学生としては異色の人物は、このほとばしりに5回参加した。彼が私に話したところでは、死に際の兵士の顔には痛ましくも必死の形相が現れる。「訪問者の顔にはそれに似た表情がありました」と彼は語った。
ベイラー大学のジェイソン・ヴィッカーズ氏は、その著『Outpouring(ほとばしり)』(アズベリー神学校神学者トム・マッコール氏との共著)の中で、ヒューズ講堂に入ろうとしていた長蛇の列は、大恐慌時代に食事の配給を求めて並んでいた人々を想起させたと記す。「この2つの接点は明々白々たるものだった。彼らは神に飢え渇いていた。そして、神がそこにいると真心から信じていたのだ。」とヴィッカーズ氏は語る。
アメリカにおける霊的飢え渇きの存在は、おそらく言うまでもない。だが、本学学生について私が強く感じたのは、その飢え渇きに彼らがどう対応したかということだ。訪問者の列は整然としていて、それはこの出来事全体の特徴と同様だった。リーダー陣は秩序を模索したが、組織化を目指してはいなかった。最前線のリーダーの一部は学生だった。彼らは証しをし、仕え、礼拝を導いた。
我々の記録によると、学生の訪問者は16日間にわたり285大学からやって来た。推定100チームが壇上で礼拝を導いた。指示を待つことなく、彼らは舞台袖のスポットライトが当たらない場所から役割を果たした。これは、邪魔にならないようにしようとする、全般的な暗黙の配慮と一致する態度だった。礼拝を導く前に、チームは私たちが準備した「聖別室」で祈り、また祈られるために1時間を過ごした。この人目に触れない場所は、ほとんど注目を浴びなかったが、ある人はここを、ほとばしりの「原子炉」と評した。
アズベリー大学に何か特別なものがあったとか、2023年が特別だったとかいうことを、私は考えていない。神はどんな場所や時をも用いて、御霊を注ぐことができる。実際、似たような御霊のほとばしりは、あれ以後サンフォード大学やリー大学、ベイラー大学、テキサスA&M、オーバーン大学でも起きた。
だが、ここにいた人々にはどこか特別なところがある。1年前、私が目撃したのは、学生コミュニティと、彼らを導く教職者およびスタッフの最高の姿だった。彼らは信仰深く、熱い霊性と聖い想像力を持ち、徹底した無私無欲を実践する用意があった。
このほとばしりの後にコミュニティのパネルディスカッションで、クリス・シガー-ルイス美術教授は「アズベリーは川床のようなものです」と述べた。「水は流れ出す時、どこへ流れていくべきか知っているのです」。
この徹底した無私無欲と、Z世代が飾らない真正なものを明らかに渇望していることとは、キリスト教とその組織機関と教会の未来に希望があるというしるしだ。
何万人もがキャンパスに押し寄せる中、本学職員は物置部屋に集まり、「今起きていることを尊重する」ような決定をした。
コメンテーターたちは、ジム・デイビス氏とマイケル・グラハム氏の2023年の共著『The Great Dechurching(大いなる教会離れ)』にあるデータを声高に取り上げている。この四半世紀に、約4千万人のアメリカ人が教会に「定期的に出席している」から「年に1回未満出席」に変わった。この数字は、第一次大覚醒、第二次大覚醒、およびすべてのビリー・グラハム・クルセードによる回心者の合計を上回る。
教会を離れた人々のうち、約1千万人は「教会での傷つき」を理由としている。つまり、霊的虐待や信頼喪失を理由に離れたという。マイケル・グラハム氏は、こうした人々を「負傷(casualty)」退場と呼ぶ。しかし、残りの4分の3は「さしたる理由もない(casual)」退場だ。彼らは引越先で新しい教会を見つけられなかった人や、多忙や生活様式の変化のために毎週礼拝に通わなくなっていった人だ。
さしたる理由もない教会離れは、表面的な(casual)キリスト教と相関関係がある。神学者であり著述家であるスタンリー・ハワーワス氏が示唆したとおり、現代キリスト教のポケットは、私たちが頭の中で持ち歩いてはいるが、日常生活にはほとんど影響を及ぼさない、一連の命題へと成り下がってしまった。表面的な信仰が生み出す信仰体系は、ほとんど何も要求することなく、「イエスは主だと信じるが、それはあくまで私個人の意見だ」といった、ひ弱な信仰を告白する。
だが私は、Z世代は違うと思う。私の回りの青少年たちは飽くなき飢え渇きを抱き、キリストへの献身において「犠牲を払う」用意がある。Z世代のクリスチャンには真剣さがある。代わり映えしない現状には満足していないのだ。
バーナ・グループの調査によると、Z世代は霊的成長を最優先事項と考える。一般に、彼らは中身のない言葉や偽善を拒絶し、行動に表された価値観を欲している。彼らは信仰を分かち合うための戦略として、言葉より行動に重きを置く。
本物を中核的価値として尊重する世代にとって、これは驚くにはあたらない。
あるポッドキャストで、ジャーナリストのオリビア・ラインゴールド氏は、自身を「あまり霊的な興味はない人間」とし、教会には足を踏み入れたことがないと言いながらも、昨年アズベリーで起きたことについて、次のような驚くべき発言でエピソードを締めくくった。「あなたが何を信じるかに関わらず、そこに熱心に神を信じる若者たちがいることは、否定できません。そして今や、私が思うに、彼らはある種のムーブメントを引き起こしたと言えます」。
ラインゴールド氏の発言が的を射ているようにと私は願う。
私はこうも願う。この群れの中から残りの民が現れ、その固い決意によって、伝統的キリスト教が持つ、飼い慣らされていない、流浪の、根源的に多くを要求する精神を徹底的に回復させてくれるようにと。
私は、彼らが真剣で献身的な聖徒たちの姿を求めるようにと願う。ゾフィー・ショル、シモーヌ・ヴェイユ、ディートリヒ・ボンヘッファー、オスカル・ロメロ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの姿を追い求めるように願う。人目立ちする聖職者や繁栄の福音の神学ではなく、有名人がいるカルチャー教会でも、個人主義的な癒やしの神でもなく。そのような神は私たちを失望させ、私たちの好みを肯定するためだけに存在する。
Z世代はまさにこのような信者を生み出していることを示唆する証拠が、十分にある。本学学生は、今日の教会にとって、ごく小さいかもしれないが根本的に反体制文化的なやり方で、今回のほとばしりを形づくった。著名なエンターテイナーやメディアの有名人に対して、学内でスポットライトを当てることに学生たちは関心がなかった。証しや礼拝リードをする時、自分の経歴を長長としゃべることはしなかった。祈りの間、多くの学生は祭壇にスマホを置いた。学生たちは教職者、スタッフ、事務職員のために祈り、私も祈ってもらった。
Z世代はきわめて病的な集団だとしばしば言われる。宗教心が薄い。教会を離れていっている。組織をきらう。不安を持ち、抑うつされ、テクノロジーとソーシャルメディアによってゆがんでいる。そんな集団が、今日の福音主義をさいなむ病の答を持っているなど、疑いたくなるのも当然だ。よりによって、この世代が?
だが、この問いは、聖書におけるキリストとの対話に非常によく似ている。「イエス様、あなたの足を洗っているのが誰かご存知ですか?」「あなたが食事をしているのは誰の家かご存知ですか?」「よりによって、この人たちですか?」
今回のほとばしりは、私のうちに多くの問いをもたらした。その多くには、まだ答がみつからない。だが、この出来事によって、私はこの世代を新鮮な目で見るようになった。もし仮に、「不安世代」や「i世代」ではなく、私たちが「修正世代」の台頭を目の当たりにしているとしたら、どうだろう?
もちろん、Z世代の中には、先代の残した問題をすっかりきれいにする(そして今度は「何でも解決世代」と呼ばれるようになる)といった、過大な期待を負わせられるのをきらう者がいるのはわかっている。それでも、私は考えずにはいられない。もしかしてこの世代は、ここ数十年の間に教会離れを引き起こした表面的なキリスト教の解毒剤として、イエス・キリストに対する弾力的で献身的で犠牲をいとわない信仰を体現するのではないか。
私はすでにそれを見たので、そう考えずにはいられない。
チャーリー・コックスというアズベリーの学生は、こう言った。「リバイバルというのは、死んだものが再び命を得ることです」。
Kevin Brown氏はケンタッキー州ウィルモアのアズベリー大学学長である。
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