私が育った静岡県には、日本に来た最初のイギリス人に献げられた公園がある。伊東市の海岸沿いのささやかな公共スペースは、三浦按針ことウィリアム・アダムズを記念する。彼は乗船していた船が日本の沿岸に漂着した時、この国に来た。
地元の権力者に拘束された按針は、江戸時代の初代将軍で、日本を支配する軍司令官徳川家康に仕えるようになった。やがて彼は侍に出世した最初の西洋人となり、「青い目のサムライ」と呼ばれるようになる。伊東市では、1604年に初の洋式帆船を建造した彼の功績を記念して、毎年8月に按針祭が行われ、日本政府は横須賀市の彼の墓地を、安針塚として国の史跡に指定することで、彼を称賛する。
現在FXで配信中の『Shōgun』(2024年)(以下『将軍』)は、按針と徳川の生涯にインスピレーションを得た作品だ。按針が初めて日本に上陸した年を時代背景とし、イギリス船航海士ジョン・ブラックソーン(コズモ・ジャーヴィス)のストーリーを語る。ブラックソーンは日本に漂着し、日本の武将吉井虎永(真田広之)に拘束される。まもなくブラックソーンは、虎永と他の4人の武将たちとの政争に巻き込まれ、最終的に虎永が将軍に上り詰めるのを目撃する。脚本家でプロデューサーのレイチェル・コンドウとジャスティン・マークスは、1975年出版のジェームズ・クラベルによる同名のベストセラー小説に基づいて、本テレビシリーズを製作。原作は1,500万部以上を売上げ、その後1980年に人気テレビ番組となった。
原作小説が、日本文化に対する一般大衆の興味をそそったように、この2024年のFX作品も間違いなく、多くの人々に日本文化と歴史について伝えることになろう。「『将軍』はおそらく、太平洋戦争以降、あらゆる学者やジャーナリストや小説家が書いてきたことを合わせたよりも、もっと多くの日本についての情報を、より多くの人々に伝えたと思う。」と、1980年に日本学者ヘンリー・スミスは記している。
同様に、今回のテレビシリーズも幅広い批評家から称賛を受け、ニューヨーク・タイムズの評者が記しているとおり、特に80年代のバージョンと比較して高く評価されている。だが、多くの視聴者が再発見し、もしかしたら初めて知ることになる点がある。それは、キリスト教が日本に伝来してわずか50年ほど後に、この宗教が国内でどれだけ浸透していたかということだ。
『将軍』におけるキリスト教描写
『将軍』では第1話から明示されていることだが、1600年には、ポルトガル人カトリック教徒がすでに数十年間、日本における交易から多くの利益を得ており、彼らの目の敵であるヨーロッパ人プロテスタント教徒に対し、日本のことを秘密にしていた。作品ではこの国際的な宗教的・政治的対立を背景に、ブラックソーンと彼のオランダ船エラスムス号は、「スペイン人のテリトリーを略奪せよ」という具体的命令を受けてアジアに派遣された。
虎永とその手下たちがエラスムス号の船員を拘束した後、囚人たちは、自分たちの投獄の陰にカトリック教徒がいるのではないかと恐れた。ある時、一人のポルトガル人カトリック神父がブラックソーンの通訳をしに来る。神父が自分は「神のしもべ」だと自己紹介すると、ブラックソーンはあざけりを込めて「お前の神だろ、(中略)カトリックの手先め」と応答する。その後、ブラックソーンは神父のロザリオをひきちぎり、「俺はお前たちとは違う」と言い放ち、十字架を踏みつける。すると神父はブラックソーンを「悪魔、人殺し、海賊」と決めつけ、死刑にすべきだと言う。
このシーンのもとになったのは、按針の1611年の書簡に記された史実記録だ。彼は日本に着いてまもなく、彼の「不倶戴天の敵」である外国人イエズス会士が、通訳としてやって来たと苦々しく記述している。
ブラックソーンとこのカトリック神父の劇中での対立は、16世紀から17世紀にかけての一般社会でのプロテスタントとカトリックとの宗教・政治的混乱を反映している。プロテスタントの宗教改革が1517年にヴィッテンベルクで始まり、その翌世紀にかけてヨーロッパ全土に広がった後、カトリックとプロテスタントの緊張関係が助長され、時に武力衝突が起きた。こうした衝突は大規模な戦いに発展することもあり、フランスの宗教戦争(1562–1598)や三十年戦争(1618–1648)もそうした中で起きた。
この同じ時期に、イグナシウス・ロヨラが1540年にイエズス会を創立し、カトリック教会は全体として、世界伝道に改めて力を入れた。1549年、スペイン人イエズス会士フランシスコ・ザビエルとその仲間たちは、初のキリスト教宣教師として日本に到着し、ローマカトリックの信仰はまもなく全国に広まり、上流階級を含む多くの人々に伝えられた。
世界における日本とヨーロッパとの関係も、経済に影響をもたらし、日本との交易はポルトガルとスペインに独占されていた。したがって、プロテスタントのイギリス人航海士が思いがけず漂着したことは、日本にいる(カトリックの)ポルトガル人とスペイン人にとって宗教、経済、政治の面で脅威となった。
三浦按針ことウィリアム・アダムズ
実在の按針は、実際にイギリス人航海士であり、妻と二人の子どもをイギリスに残し、世紀初頭[AT1] [AT2] に不運なオランダ船に乗り組んだ。番組の中で虎永はブラックソーンに旗本(将軍の幕臣の中で上位の侍に与えられる肩書)の位を授けるが、按針も徳川家の旗本となり、貿易の相談役を務めた。
ただし、原作小説の作者ジェームズ・クラベルも、FX番組の脚本家も、いくつか史実とは異なる脚色を加えている。その創作の多くは地理的なもので、たとえば主人公の出身地(ケント郡からロンドンへ)、日本の漂着地(大分県から静岡県へ)が変更されている。だが、今回の作品ではこの他、ブラックソーンは戸田鞠子(まりこ)(アンナ・サワイ)と関係を持ったとしている。(史実では、按針は日本人妻をめとり、息子ジョゼフと娘スザンナをもうけた。)
Gracia Tama Hosokawa細川ガラシャたま
戸田鞠子は、一般に細川ガラシャたまとして知られる歴史上の人物にヒントを得ている。明智たまとして生まれた彼女は明智光秀の娘であり、光秀は本能寺の変で主を暗殺したことで悪名高い。たまの父親の裏切りにより、たまの夫細川忠興は、今日の京都府の山間にたまを数年間幽閉した。大阪の夫の屋敷に戻った後も、たまは死ぬまで軟禁されていた。
ある日、夫が戦さに出陣中、たまは密かにカトリック教会の復活祭ミサに出席した。これは彼女にとって最初で最後の教会出席となったが、キリスト教に興味を持っていたたまは、その後イエズス会士たちと書簡のやり取りを重ね、ついに改宗に至った。その約10年後、忠興は日本最大の武将の戦いにおいて徳川方に付き、指令官石田三成に対抗した。
たまの死については諸説あるが、石田がたまを人質に取ろうとした時、たまは自害をしたか、殺されたか、火事で焼死したかのいずれかとされる。たまは1600年に亡くなったので、時代設定が後代である『将軍』に鞠子が出てくるのは、完全に時代が合わない。さらに、この番組で鞠子がイエズス会宣教師たちとたびたび対話したり、何度も外出したりしているのは、史実と異なる。実際のたまは、亡くなるまで軟禁状態だった。鞠子は自身がキリシタンであることを大っぴらに認めているが、これはたまの強い信仰と、死に至るまで信仰を守り抜いた意志の強さを反映している。
真実な信仰?
按針は本当にクリスチャンだったのかと、視聴者は疑問に思うかもしれない。『将軍』におけるブラックソーンは口が悪く、不倫関係を持ち、敬意も払わずに十字架を踏みつける。だが、実在の按針が1611年から1617年にかけて書いた6通の書簡を分析すると、彼の信仰は、彼の私生活においてかなり重要な役割を果たしたのかもしれないことが見て取れる。
按針は、1611年10月付の最初の書簡で、イエスに2回、明示的に言及している。この書簡を受け取った人が、イギリスの彼の妻と子どもたちに、彼が生きていることを知らせてくれるようにと要請する際、イエス・キリストに懇願している。こう記されている。「イエス・キリストの名によって祈り、またあなたに懇願します。私がここ日本にいることを私の哀れな妻にお知らせください」。彼は書簡の末尾にも、同じような要請をしている。妻と子ども達、そして知人たちが、彼の手紙について知らされ、彼らが返信をしてくれるように、全能の神に祈っている。
按針が日本から出した6通の書簡は、合計47回、神に言及している。彼と仲間の乗組員たちが盗みの疑いをかけられて拘束され、苦難を味わったさまを記す中で、神は憐れみを示し、自分たちの命を救ってくれたと神を賛美する。また、神は彼を祝福し、「以前の敵(つまりスペイン人とポルトガル人)」の悪行に善をもって報いてくださったと語る。良く知られた教会の祝詞を引用して「神のみにすべての誉れと賛美、力と栄光が、今も後も、世々限りなくあるように」と記し、神は天地の造り主であると告白する。神に対するこうした言及を見る限り、少なくとも言葉の上では、按針は人生における神のご臨在と導きを信じていたことを告白しているのだ。
按針が日本に漂着した頃、キリスト教迫害はすでに始まっていた。1587年、関白豊臣秀吉はキリスト教を、キリスト教諸国から伝来した邪教とし、日本は自国の神々に守られているとした。そこで彼は布告を発し、大名(大地主)はクリスチャンになるために彼の許可を必要とし、臣下に改宗を強制することを禁じ、キリスト教宣教師を国外追放した。その10年後の1597年、秀吉は26人のカトリック教徒(フランシスコ会とイエズス会双方の宣教師と、日本人信者を含む)を長崎で十字架刑に処した。
按針はこの悲劇的事件のわずか3年後、隣県大分の街にやって来た。彼の書簡には、日本にいる間にキリスト教迫害が激化する様子が書かれている。1613年1月付の書簡で、「ローマ派」のクリスチャンが多数存在することに触れているが、すでに1612年にはフランシスコ会派は「鎮圧され」、長崎に残っていたのはイエズス会派だけだった。
1614年、徳川家康はキリシタン禁令を発布して宣教師を国外追放し、クリスチャンへの改宗を違法とした。按針は1616–17年の書簡で家康のクリスチャン迫害を証言している。家康は外国人のローマカトリック教徒を国外追放し、教会の焼き討ちを命じたと按針は記す。さらに、家康の死後、その子徳川秀忠は「ローマの宗教」に反対の立場をとり、大名が「ローマのキリスト教」に改宗することを禁じた。
日本における一連のキリシタン処刑は、按針が亡くなる1620年まで、彼の生涯を通じて迫害が厳しさを増していったことを反映する。1616年には江戸で23人が殉教し、1614年には有馬で43人が殉教、1619年には京都で53人が殉教した。
1633年、日本は無期限の鎖国状態に入った。この期間、隠れキリシタンは厳しい迫害を避けるため、自分の信仰を隠していた。日本政府はすべての家族に仏教寺院への登録を義務付け、人々に踏み絵(イエスやマリアなどのキリスト教の象徴の絵)を踏ませ、キリシタンを密告した者にはほうびを与えることによって、キリシタンを捕らえようとした。つかまったキリシタンは信仰を捨てると言うまで拷問され、棄教しなかった者は残虐に処刑された。
按針は外国人ではあったが、そのストーリーは17世紀にキリシタンが直面した複雑な事情をよく描写している。彼の書簡からわかる通り、彼が神を信じ続けたことによって、霊的な孤立状態にあっても信仰による忍耐を持ち得たのかもしれない。さらに、彼が有力な地位に上り詰めたのは、彼が外国人クリスチャンであるにもかかわらず、周囲の人々が彼の知識、技術、社会資本を重んじていたことを示す。
その一方、按針はプロテスタント信者として日本に住んでいたのだが、彼の存命中、プロテスタント信仰は日本に根付くことも広まることもなかった。按針は神への信仰を持ち続けたが、疑問は残る。日本のキリシタンに対する敵意が増大する中、彼はその信仰を隠していたのだろうか。
実際、按針の信仰は最初の書簡でいちばん鮮明である。1617年以降の書簡では、信仰の表明といえば、受取人を「全能者のご加護」に委ね、あるいは受取人の繁栄を祈るという末尾の定型表現にとどまる。
1620年に亡くなるまでの期間、具体的な信仰の表明はないものの、他の日本人キリシタンの勇敢な信仰に、彼が心動かされたのではないかと希望的に観測することはできる。たとえば細川は、ある時、神父にこう語った。自分の改宗が起きたのは、「人の説得によるのではなく、唯一の全能の神の恵みと憐れみのみによるものです。私はこの方のうちにあって、天が地に移り変わろうとも、木々や平原が滅びようとも、私が神に対して持っている信頼によって、私は動かされることがないとわかりました」。
Kaz Hayashi(ベイラー大学でPhD取得)はミネソタ州ベテル神学校・大学旧約聖書准教授である。日本で生まれ育ち、マレーシアの高校に通い、現在、家族とミネソタ州に在住。Every Voice: A Center for Kingdom Diversity in Christian Theological Education(キリスト教神学教育における神の国多様性センター)フェロー。