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木が教えてくれること−命、死、そして復活について

神と人以外では、木は聖書に最もよく出てくる生命体だ。

Christianity Today August 28, 2023
Veeterzy / Unsplash

私はいつも木が好きだった。そのかたち、木陰、葉ずれの音、木になる果実の味わい、すべて好きだ。小学生の頃、父と祖父と一緒に初めて木を植えた。以来、ずっと木を植え続けている。かつて、医者になる勉強をしていた時、妻と私は、家の前の通りに端から端まで木を植えた。だが、10年余り前、教会に木を植えましょうかと申し出たところ、牧師のうちの一人が私に、「あなたは環境保護論者の神学を持っている」と言った。これは好意的な発言ではなかった。

この教会は保守的だった。聖書は霊感を受けて書かれた、誤りのない神の言葉だと信じていた。だからこそ、私たちはそこに通っていたのだ。ある教会員が私に説明してくれたように、「リベラリズムという滑りやすい坂道に足を踏み入れたら、どこまで行ってしまうかわかったものじゃない」のだから。

あの牧師のコメントに対する私の最初の反応は、こうだった。「もしかしたら自分が間違っているのかも。もしかしたら神様は木のことを大切に思っていないのかもしれない」。

当時、私の家族は全員、新米クリスチャンだった。娘はまだ牧師と結婚していなかった。息子は小児科医宣教師としてアフリカに行っていなかったし、私はまだ、応用神学についての本を何冊も書いてもいなければ、世界中の1,000以上の大学や教会で説教したこともなかった。そんな私が木の神学について何を知っていたというのだろう?

しかし、40代で初めて福音に触れて以来、聖書は私のコンパスだった。だから、環境保護論者と呼ばれた時、聖書を開いて指針を得ようとした。

神は木を愛する

人間と神以外では、木は聖書に最もよく出てくる生命体だ。木は創世記の最初の章(11–12節)、最初の詩篇(1:3)、黙示録の最後のページ(22:2)に出てくる。こうしたすべての木のことを印象づけるかのように、聖書は知恵のことを木と呼んでいる(箴言3:18)。

聖書の中で、すべての主要人物とすべての主要な神学的イベントには、木が関連付けられている。このパターンの唯一の例外はヨセフだ。ヨセフの場合、聖書は彼に最高の賛辞を送っている。ヨセフは木なのだ(創世記49:22)。実際、エレミヤはすべての信者に木のようであれと激励している(17:7–8)。

聖書の中で唯一、イエスの身体的描写がなされているのはイザヤ書だ。「メシアが来られる時、それとわかるようになりたいか?」とイザヤは尋ねる。「砂漠の地から生え出た小さな木のような人を探せ。」(53:2、言い換えは筆者)。

木は美しいと思うだろうか?もしそうなら、あなたには良い仲間がいる。神も木を愛している。創世記冒頭の3つの章において、木が出てくる文をすべてハイライトしていくと、神が木についてどう考えているかがだいたいわかる。3分の1近くの文に木が出てくる。

創世記2:9は、木は「見るからに好まし(い)」と断言する。この美的基準は聖書全巻を通じて揺らぐことがない。神は、ご自分の民に燭(しょく)台の作り方を指導するにしても(出エジプト記25:31–40)、神殿の受け材の装飾にしても(列王記Ⅰ6)、大祭司の祭服の裾を縁取るにしても(出エジプト記28:34)、美の基準は木(とその果実)にある。今日、家の中でいちばん居心地のいい座席はどれかと考えると、テレビに面した席ではないだろうか。天国では、神の御座は木に面している(黙示録22:2–3)。

創世記2章で、神はご自分の手で2つのものを造る。第1にアダムを形造り、その鼻にいのちの息を吹き込む(7節)。次に、アダムが息を吐き出す前に、神は向きを変えて、園に木を植える(8節)。この時、木の下に、神は優しくアダムを置き、園を耕し、守るという仕事を与える(15節)。木には、神から与えられた、成し遂げるべき唯一の職務がある。神は木に命じて、人間の命を保ち(創世記1:29)、人間に住む場所を与え(創世記2:8)、人間を生きながらえさせるために食物を提供するように(16節)された。

不思議なことに、聖書は一貫して木を意思伝達できる存在として描写する。木は手を打ち鳴らし(イザヤ書55:12)、喜び歌い(Ⅰ歴代誌16:33)、議論さえする(士師記9:7–15)。さらに不可解なことに、聖書の中で魚や鳥など、明らかに意思伝達できる動物は、ほぼ沈黙したままである。人が聖書を読んできた数千年の間、このことは単なる詩的表現として片付けられてきた。だが、この20年ほどの間に、樹木研究者は木について驚くべきことを発見した。木は実際に意思伝達しているのだ。木は数を数え、資源を共有し、「Wood Wide Web」とも言われるシステムを使って互いに話をする。

消えゆく森林

聖書の中には立派な森林が出てくるが、現代のほとんどの人は木についての説教を聞いたことがない。だが、いつの時代もそうだったわけではない。チャールズ・スポルジョンの説教題をいくつか見てみると、19世紀中盤から後半に人々が講壇からどんな説教を聞いていたかをうかがえる。「いのちの木キリスト」、「神の中庭の木」、「レバノン杉」、「森のリンゴの木」、「オリーブの木の美しさ」、「桑の木の音」、「葉のない木」などなど。「説教者の王子」と呼ばれたスポルジョンは、聖書の中に森や木を見ることに何の困難もなかった。

木は現代の説教から消え失せてしまっただけでなく、聖書からも消えつつある。私の本棚には欽定訳スタディバイブルがある。出版されたのはスポルジョンの時代だ。この中には木や植物についての解説が20ページ以上含まれており、1ページ大の木の図版も複数ある。2013年に同じ出版社が改定版を出版したところ、こうした注解のページはことごとく省かれていた。索引には、「木」の項目のところにわずか3つの参照項目があるだけだ。私の本棚にある別の、もっと最近のスタディバイブルの索引には、木の項目は一つもない。

木は、かつては説教やスタディバイブルによく出てくるトピックだったが、キリスト教文学においても木は頻繁に出現していた。千年以上さかのぼって英国文学の最古の作品の一つ『十字架の夢』を見てみると、受難を木の観点から見た場合のストーリーを聞くことができる。

もう少し最近でも、クリスチャン小説家であるジョージ・マクドナルド、J・R・R・トールキン、C・S・ルイスなどは、その作品の中に聖書に根ざした木の神学を盛り込んでいる。たとえばマクドナルドの『北風のうしろの国』にある天国の情景、トールキンの中つ国のロスロリエンにある木の安息地、ルイスの『ナルニア国物語』でアスランが活動する時、木々が反応する様子、どれを見ても、著者は木々のただ中に安息の情景を描き出している。善人たちは木の下、木の中、または木の近くに住んでいる。彼らは木を重んじ、保護し、話しかけたりもする。逆にタシやサウロンといった悪人たちは、明らかに木を伐り倒す人物であり、しかも話をする木まで伐ってしまう!

現代のクリスチャンの想像世界から木が消えつつあるのはなぜか?その理由は多く、また複雑だが、その中心にあると思われるのは、二元論という紀元1世紀の異端の復活だ。つまり、神のつくられた世界は悪く、霊的な事柄のみが神の栄光を反映するという二元論である。この哲学の大きな欠陥の一つは、被造物の中で神が「良い」と言われたすべてのものを過小評価している点だ。パウロがローマの信徒に言ったとおり、森に散歩に行ったら神を信じないという言い訳はできない。自然をとおして、私たちは神の力と栄光の決定的証拠を突きつけられるのだ(ローマ1:19-20)。仮に木と、神の世界のそれ以外の部分が本質的に堕落しているとしたら、パウロの宣言は誤りということになる。

いのちの木への回帰

神学から木を除外するということの問題は、神が聖書に木を記したのには理由があるという点だ。エデンの園の中央には2本の木があった。1本(いのちの木)は、神聖で永遠なる存在と人類とのつながりを表すものだった。もう1本(善悪の知識の木)は人間の働き、そして可能性として存在する反逆を表す。アダムとエバが取って食べるなと言われた木から取って食べた時、二人は「きれいに整える[訳注:英語ではdress]」ようにと命じられた、まさにその木から葉をはぎ取る[訳注:英語ではundress]ことによって(創世記2:15; 3:7)、自分たちの犯罪を覆い隠そうとした。二人が次にしたのは、木の後ろに逃げ込んで隠れることだった(創世記3:8)。創世記3章の最後で、アダムとエバは園から追放される。となると聖書は、救い主という人類の必要を神が満たし、私たちを再びいのちの木と再会させるという物語でなくて何だろう?

聖書に木が出てこなかったら、マラの水はずっと苦いままだったし(出エジプト記15:25)、ガテの巨人がその企みをくじかれることはなかったし(Ⅰサムエル17:43)、ダビデは合戦の呼びかけを聞き逃しただろう(Ⅰ歴代誌14:15)。デボラにはイスラエルを裁くための場所がなかっただろうし(士師記4:5)、神はその民を義の樫の木と呼ぶこともなかっただろう(イザヤ書61:3)。ヤコブがアーモンドの果樹園(後にベテルと改称されたルズはアーモンドの木の意味)で眠りに落ちて、木製のはしごが天と地の間に掛かっているのを夢に見ることもなければ(創世記28:10–19)、ヨブが木と再生についてのあの名言を口にすることもなかった(ヨブ記14:7)。そして肝心なことに、木がなければ、堕落についても、イエスのあがないの死についても理解することは不可能だ。

イザヤはこう預言した。神の民は、救いのために神が植えた「ひこばえ」に気づかないだろう(イザヤ書53:2)。この預言は、ヨハネによる福音書の最初の章で成就した。その場面、ピリポはナタナエルのところに行って、こう言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(ヨハネ1:45)。ナタナエルはよく知られた応答をする。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。ピリポは促した。「来て、見なさい」(46節)。イエスはナタナエルが近づいてくるのを見て、こう言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません」(47節)。イエスは、こう言われたも同じだ。「見なさい。(神と格闘して勝った)イスラエル人です。この人にはヤコブ(欺す人)の性質は一切残っていない」。ナタナエルは間違いなく賛辞をいただいたのだ。

これに先立ち、イエスはナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見ていた(ヨハネ1:48)。聖書は、イエスがナタナエルを見た時、彼が何を祈っていたのか記していない。だが、木の下にいたことをイエスが言われただけで、ナタナエルは一片の疑いもなく、イエスがメシアだと悟った。もしかしたら、ナタナエルは自分が生きているうちにメシアを見させてくださいと主に懇願していたのかもしれない。メシアを見たらそれとわかるために、預言書を研究しているんですよと、ナタナエルは神に念押しさえしていたかもしれない。

しかし、ナタナエルは預言者イザヤのこの言葉を忘れていた。「彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない」(53:2)。イザヤが預言したとおり、小さな木にちなんで名づけられたナザレの村から、何か偉大なものが実際に出てくるのだった!

イエスは続けてナタナエルに言われた。ずっと昔、ヤコブが夢に見たはしごをあなたは見るだろうと。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります」(ヨハネ1:51)。ナタナエルがそれと認識したかどうかはともかく、木が関係する救済計画が着々と進んでいたのだ。

だから、信仰によって木が根こそぎにされ、海に投げ込まれるだろうとイエスが語られた(ルカ17:6)のも、驚くにはあたらない。あるいは、弟子たちは実を結ぶだろうとイエスが言われたのも(ヨハネ15:8)、実を結ぶ枝がいのちを与えるぶどうの木につながっているように、私のうちにとどまりなさいと指導されたのも(15:4–6)、不思議ではない。パウロが記したとおり、信者は接ぎ木された枝や若枝のようなものだ(ローマ11:17–18)。

イエスは屈強な大工だ。厚さ2センチ近いベニヤ板2枚を一人で持ち上げることができるような男だ。殺そうとしても容易ではない。生まれた瞬間から、敵はイエスを殺す計画に着手した。赤ん坊の時に殺そうとし(マタイ2:16–18)、石打ちにしようとし(ヨハネ10:31–39)、崖から突き落とそうとした(ルカ4:29)が、成功しなかった。イエスは40日間断食することができ、地球上で最強の対戦者を相手にリングに上り、3ラウンド戦って勝利をものにした(マタイ4:1–11)。おぼれさせようとしても無駄だ。そんな企みからも逃れるに決まっている(マタイ14:22–33)。

そうではなく、ナザレの大工を傷つけることができる唯一のものは木だ。なぜか?それは木にかけられる者はのろわれるからだ(申命記21:23、ガラテヤ3:13)。ナイフで刺される者でも、石打ちにされる者でも、焼き殺される者でもない。(ちなみにヘブル語では、絞首台と木とは同じ一つの単語だ。)木がなければ復活はなく、イースターの朝の良い知らせもない。十字架は実は、人の罪によって切られて作られたいのちの木である。それでもイエスの血によって、ローマ帝国の拷問の道具として使われていた死んだ木は、永遠のいのちのシンボル、すなわちいのちの木に変えられたのだ。イエスはいのちの木であり、やがてイエスに従う者たちはこの木の葉を取って食べ、癒される(黙示録22:2, 14)。

新しいタイプのドア

私は大工として人生を始めた。今に至るまで、大工であることをやめていない。この数年間で、自分が住む家をすっかり化粧直しした。ドア、床、その他の至るところまで。

大工仕事で、日曜大工と熟練職人との差が出る一つの点は、頑丈なドアをイチから取り付ける作業にある。時代や文化に拘わらず、ドアというものは実によく似ている。ちょうつがいで固定され、ドア枠に向かって閉じる。ドアの上部にはヘッダーがある。聖書の表現にならえば、ドアには2本の門柱があり、上部には鴨居がある(出エジプト12:22)。出エジプトの際、過越の羊の血がこの3個所の板に塗り付けられた時にドアはロックされ、死の使いは中に入ることができなくなった。

2千年前の過越の祭の時、イエスは新しくて、とても奇妙なタイプのドアを作った。なにしろ狭いドアだ。他のすべてのドアは3本の木材を必要とするが、それとは違い、2本だけ、縦に1本、横に1本だけを使う。イエスの血がこの十字に組まれた2本の木材に塗り付けられた時、天国へのドアが開かれた。そのドアの鍵を開けるには、こうするしかなかった。

聖書に木が頻繁に出てくる理由は、木は私たちに神のご性質について教えてくれるからだと思う。木のように、神は与え続ける。木は人に命を与えてきた。それは、人間が酸素の存在に気づくずっと前からのことだ。木は命、美、食物、木陰を与える。今私が執筆しているデスクは、死んだカエデの木でできている。神が命、死、復活について私たちに教えるために、木を用いるのも不思議ではない。木は神と同じく、死んだ後も命を与えるのだ。

イエスは十字架にかけられた後、木を責めたのではないかと思うかもしれない。しかし、そうではないようだ。イースターの朝、マリアが墓に花を飾りに行った時、彼女は目を泣き腫らしていた。マリアは目を上げ、イエスを見た。マリアはその人を兵士や役人や商人と見間違えたのではない。園丁と見間違えたのだった(ヨハネ20:15)。これは偶然ではない。イエスは新しいアダムとして、古いアダムが失敗した仕事に戻って来たのだ。園を整え、管理するという仕事に。聖書の末尾の章において、イエスは私たちを招いておられる。木のところで彼に会えるように、私の命令を守りなさいと。その木は神の御座の前にあるいのちの木、その枝には季節を問わず実がなり、その葉は諸国の民を癒す。

人類の未来に対する投資

信仰のゆえに木を植え、木を保護する人々には、良い仲間がいる。それどころか、かつて私のことを環境保護論者的ではないかと疑った教会は、やがて敷地内に木を植えた。しかも、その教会のロゴには今では、デザインされたいのちの木が描かれている。この応答は象徴的だと思う。神が聖書の中に植えた木々のことをクリスチャンが再発見して、自分の信仰の森を再生させると、こういうことが起きるのだ。

アブラハムは聖書の中で木を植えた最初の人物だ。当時、アブラハムは1坪の土地も所有していなかった。聖書的に言えば、植樹は利他的な信仰の行為として始まった。「アブラハムはベエル・シェバに一本のタマリスクの木を植え、そこで永遠の神、主の御名を呼び求めた」(創世記21:33)。木というものの性質のおかげで、アブラハムの行為の結果、この世界はより良い場所になった。

今日、世界の酸素、炭素、水循環における木の役割を私たちは知っている。しかし、アブラハムはそんなことは全く知らなかった。それでも、アブラハムの木立は世界のすべての家族にとっての祝福だ(創世記12:3参照)。アブラハムは次の世代、そしてその次の世代のために木を植えたのだ。

旧約聖書の末尾には、長期的思考を持てという忠告と、自分より先に生きた人々に感謝せよという勧告とがある。一つの世代の心は、次の世代の心に向かい、その逆もまた然りである(マラキ書4:6参照)。主だけが人の心をご存知だ。しかし、アブラハムの場合、木を植え、保護することは、彼の心にあったものを見えるかたちで表したものだ。長期的思考は信仰的だ。短期的思考はそうではない。詩篇1篇が、義人は木のようだと述べているもう一つの理由は、ここにあるのかもしれない。

実際、詩編1篇の作者は、木についての神の考えを非常に明確に洞察している。ダビデ王は、聖書と、マナが入った壺と、アーモンドの枝が入った神の箱が、自分の用意した天幕に運ばれてきた時、踊り、喜びの叫びを上げた。このことを祝って、ダビデ王は感謝の歌を作った。この歌は、メシアの再臨を待望する。木までもがこの祝賀に加わる。「そのとき、森の木々も喜び歌う。主の御前で。主は必ず、地をさばくために来られる」(Ⅰ歴代誌16:33)。聖書によれば、再臨の時、多くの人々がさばきを逃れるために岩の下に隠れるが、木々は隠れない。木はさばきの場でついに報われ、どんな判決が出るかを知っている。

私は聖書が言う通り、イエスは生きている者と死んだ者とをさばくために戻って来られると信じている。だが、主が再臨するからといって、人は木の面倒を見る責任がないと主張するのはいかがなものか。そういう人たちは言う。「あらゆる資源は伝道のために動員されるべきだ」。

もしそのことを信じて、しかもその信念に従って行動する人がいたとすれば、私は「アーメン!」と言おう。しかし、さきのような発言がなされる時、しばしばその裏にあるのは、マリアが高価な香油をイエスに塗った時に、貧しい人々を擁護したイスカリオテのユダ並みの誠意である(ヨハネ12: 1–8)。

木は人類の未来に対する神の投資だ。木は生命体の中で唯一、神が毎年誕生日に年輪を贈る存在だ。神だけがキリストの再臨の正確な時期をご存知だ。それが明朝であればいいと私は思う。だが、その一方で私は、百年かけて育つ木を植え、明日などないかのように福音を告げ知らせようと努めるのだ。

Matthew Sleethは医学博士、講演者、著述家、被造物管理の促進団体Blessed Earthの理事である。近著「Reforesting Faith: What Trees Teach Us About the Nature of God and His Love for Us(信仰の森の再生:神のご性質と人への愛について木が教えてくれること)」(WaterBrook)は2019年4月発行。

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