尾山令仁(おやまれいじ)氏は『現代訳聖書』の翻訳者であり、日本福音同盟の創立メンバーの一人でもあるが、5月16日、東京で亡くなった。96歳だった。
尾山氏は1960年に聖書を翻訳し始めた。まずピレモンへの手紙を訳し、やがて1978年に新約聖書全体の日本語訳を出版した。日本語の書名は『現代人の聖書』[訳注:その後『現代訳聖書』に変更]だった。だが、尾山氏は「わかりやすい聖書」を意味する英語の書名「The Understandable Bible」の方を好んで用いた。
尾山氏の考えでは、大半の人が聖書を読まないのは、聖書がむずかしいと思っているからだった。しかし、むずかしいのは聖書自体ではなく、翻訳のしかたによるのだ、と尾山氏は述べている。聖書の日本語訳は、大部分が聖書本文に忠実であろうとしているが、残念ながら文化的な違いを考慮していないと尾山氏は唱えた。
尾山氏が重要だと考えたのは、こういうことだ。最初の読者に啓示された時の聖書本文の意味が、日本語においても等しく明らかであるべきだ。そのため、彼の翻訳はしばしば、逐語訳というより言い換えであった。
「父は、子どものような素直な、謙遜な信仰を私に毎日見せてくれました」と娘の岡野めぐみ氏は葬儀で思い出を語った。「謙遜な幼な子のように、聖書から教えられたことを受け入れ、それがその通りだと信じる信仰を持っていました」。
尾山令仁氏は1927年1月15日に東京で生まれた。父の藤仁(とうじ)は三越デパートのマネージャーだったが、後に古書店を開業した。母の幾子(いくこ)は専業主婦だった。第二次世界大戦が始まった時、尾山氏は大日本帝国陸軍経理学校で士官候補生となった。この学校ではエリート士官に大学レベルの授業、武術、馬術を教えた。
戦後、尾山氏は早稲田大学に入学し、教会のバイブルクラスで英語を学び始めた。クリスチャンの友人である、アメリカ陸軍のヘンリー・イケモト軍曹は、G.I.ゴスペルアワーという伝道集会に出席するよう、尾山氏を熱心に誘った。何度も断ったが、とうとう断る理由がなくなり、体調がすぐれなかったにもかかわらず出席することにした。その晩、日本人説教者の中田羽後(なかた うご)氏がキリストの十字架について語るのを聞いた。中田氏が、その場にいた人たちがいやされるように祈ったところ、尾山氏はすぐに熱が下がるのを感じた。19歳の尾山氏は、1946年11月30日、生涯をキリストにささげた。
「自分が罪人であることを知ると共に、(中略)それら一切の罪は主(中略)に赦されたのだという確信が湧いてきた」と、後に彼は語っている。
早稲田大学が教室不足を理由に日曜日に授業を行い始めた時、尾山氏はキャンパスで聖書研究会を始めることにした。クリスチャンが日曜日に神を礼拝できるようにするためだった。この聖研はキリスト者学生会(KGK)となり、今日では国際福音主義学生連盟(IFES)の一員である。この時期の尾山氏の伝道活動により、7名が洗礼に導かれた。そのうちの一人が後に妻となる平山美智子氏だった。後に彼は両親をも主に導いている。
卒業の頃、ある朝の個人デボーションの中で牧師となるよう導きを感じた。東京基督神学校で学ぶことを決め、1953年に高田馬場聖書教会を設立、今日この教会は聖書キリスト教会として知られている。
「彼の生涯は、自ら若い時に建てたあの教会を中心に回っていました。戦後、路傍伝道で福音を語り、生涯この教会に仕えました。」とローザンヌ運動名誉会長ダグ・バーゼル氏は、追悼文に記している。
イエスの名を日本人に知らしめることこそ、尾山氏の最優先事項だった。彼の子ども達も、そのことに気づいていた。
岡野めぐみ氏は追悼の辞の中で、「父はマタイ6:33のみことばに生き、神様を第一にしていました」と語った。
「父は神様にとても忠実で、勤勉な人でした。私は小さいながらも、『お父さんは神様のために一生懸命働いているから、邪魔をしてはいけない。』と思っていたので、どこかに遊びに連れて行ってもらうことが、ほとんどなくても、何の不満もありませんでした」。
日本に福音を広めたいという尾山氏の決意は、複数の聖書翻訳という形にも表れた。ヘブル語とギリシャ語の原文の言い換えをしばしば用いる訳だった。聖書全巻の翻訳は1983年と1988年に出版された。
尾山氏は「信者の観点」から翻訳することに努めた。なぜなら、神の救いは聖書を通して啓示されているからだ、と記すのは、京都の同志社大学で日本キリスト教史を教えるドロン・B・コヘン氏だ。たとえば詩篇23篇において、3節の「御名のゆえに」に代えて、尾山氏は「主の御心」を用いた。4節の「むち」や「杖」という言葉はいずれも使われず、杯があふれるという描写は「胸はもう一杯です」という表現になる。同じ節において神は「戦士」であるとされる。ルカ1:35におけるマリアに対する天使のメッセージについては、尾山氏は日本語で「聖い神様があなたのうちに命を創造されるのです」とした。
みことばの翻訳に対する尾山氏の創造的アプローチは、すべての人に受け入れられたわけではない。
尾山氏は「動的等価の原則を極端なまでに適用し、みことばが何を伝えようとしていたと思われるかという点を優先して、原文の字義通りの意味をないがしろにしてしまった」とコヘン氏は記す。そして、バプテスト・カレッジ・オフ・ミニストリーのジョン・R・ハイムズ教授は、ルカ1:35の日本語訳について、「キリストの先在と受肉の教義に反するものと受け取られかねない」と述べる。
今日、尾山氏の『現代訳聖書』はアマゾンの日本語キリスト教聖書のリストで44位にランクされている。「理解しやすい、(中略)非常に読みやすい」とある読者は評価する。「デボーションやメッセージの準備にも適用し易い聖書だと思います」と評価する人もいる。
牧師としての尾山氏の思いは、信者のために聖書日本語訳を届けることだけに留まらなかった。著書は100冊以上に及び、その中にはキリスト教の真理や死後に何が起こるかについての神学的議論、聖書のほぼ全巻についての注解書もある。1969年には新たな牧師と教会リーダーの育成のため、東京神学校を設立した。
その一方、1956年に起きたことによって、尾山氏は数十年に及ぶ戦後の和解の旅を始めることになる。マタイ5:23-24を読んでいた時、主は、日本人の罪を謝罪するための運動を始めるようにと示された、と尾山氏は回顧する。日本の百年余りの近代史において、「日本はアジアの人々を踏みつけにしてきたのを知っていましたので、彼らから恨まれているということを認識していました」。
尾山氏の最初の海外への旅はフィリピンを目的地とした。「私はあなたを遣わし、フィリピンの人たちの足を洗わせる。(中略)神の愛によって、和解を試みるために」。尾山氏は主にこう言われているように感じた。フィリピンで、尾山氏は4か月に及ぶ伝道集会を行い、「第二次世界大戦後フィリピンを訪れた初の日本人宣教師」と1959年に本誌に報じられた。
尾山氏はまた、1910年から1945年にかけて、日本が韓国を植民地支配したことの悲惨な影響を認識していた。特に一つの事件が彼の心にのしかかっていた。日本人兵士が韓国のある村の男たちを襲撃した際、それは1919年4月15日の反日デモ参加に対する報復だった。兵士たちは村人を提岩里教会内に集め、彼らを銃撃し、教会に火を放った。
この日本人牧師は、焼失したこの教会の再建のために資金を集めようと決意し、日本人クリスチャンから1千万円(約7万ドル)を集めて再建を支援した。だが、1959年に再建事業を開始するための式が行われた時、1919年の虐殺事件被害者らは日本の資金使用に抗議した。彼らの抗議がおさまったのは、このプロジェクトには犠牲者を追悼するための記念館建設も含まれていると知ってからだった。
虐殺事件から百周年の2019年、尾山氏は提岩里教会を再訪した。他の16人の日本人クリスチャンと共に、彼は教会の床に土下座し、事件について謝罪した。
「主よ、植民統治時代に日本の官憲たちにより最も乱暴な事件が起きたのがこの教会でした。」と彼は祈った。「しかし、日本の政治家は、このことについて一度も謝罪していません。間違いを犯したら、あやまるのは当然です。主よ、どうか私たち日本人をお赦しください」。
尾山氏は1968年に日本福音同盟設立に尽力した後、和解の機会を追求し続けた。この同盟の種がまかれたのは、その1年前、東京でビリー・グラハム国際大会が開かれ、15,000人の日本人信者が与えられた時だった。
2010年に東京で行われた世界宣教会議において、尾山氏は日本がモンゴル、台湾、中国などの他のアジア諸国を植民地化したことについて、公式に謝罪した。「日本は何度も殺戮し、人を殺し、盗み、奪い、レイプし、隣人たちをとにかくはずかしめました」と彼は語った。「ですから、日本人として私は心から悔い改めの思いを表したいのです」。
「義父は大日本帝国の軍隊が行ったあらゆる場所に行き、軍が犯した残虐行為について償いをしようとしました」と義理の娘の尾山キャシー氏は語る。
晩年、尾山氏は新たな伝道手段に手を染め、ユーチューバーとなった。そのチャンネル「ルンルンおじいちゃんねる」は、93歳の時に立ち上げられ、9千人近い登録者を誇る。
尾山氏は「つねに最先端であろうとして」いたとキャシー氏は語る。「日本でキリスト教ラジオを立ち上げた初代説教者の一人でした。放送は深夜でしたが、その内容がとても良かったので、リスナーは夜更かしして聴いていました」。
尾山氏のYouTubeチャンネルの120本の動画の中には、配偶者の選択や、怒りや不安の対処法といった実践的トピックを扱ったものもある。最多再生回数8万回を記録する動画は、希望を見失い、落ち込んでいる人に尾山氏が励ましの言葉を語る2分間のクリップだ。
しかし、ほとんどの動画の内容は、キリスト教信仰の諸問題について、その特徴的な物静かな口調で語ったものだ。テーマは、「新しく生まれる」とはどういう意味かについての解説もあれば、日本における開拓伝道の経験も語っている。自殺やセックスについても、ひるむことなく牧会的視点から取り上げた。
5月16日、尾山氏は自身が創立した東京神学校のスタッフと、米国の神学校からの訪問者たちと会い、牧会学博士(DMin)課程における提携について話し合っていた。昼の会食の席上、彼は目を閉じ、微笑んだかと思うと、息を引き取った。公の死因は誤嚥(ごえん)だった。
「まるで[地上で]義父に与えられた時間が、あの瞬間に終わったかのようでした」とキャシー氏は語る。「きっと義父はレストランにいて、まばたきをするために目を閉じ、目を開けたら天国にいたんじゃないかしら。文字通り最後の最後まで、奉仕の生涯を走り尽くした人でした」。
尾山氏の妻の美智子氏はすでに召されており、遺族は5人の子ども、11人の孫、7人のひ孫である。
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