この熟読シリーズでは、聖書学者が自身の弟子訓練の土台となり、今日まで影響を与え続けているみことばの中で、自身の専門分野である個所について思い巡らします。
私は新約聖書における罪の神学についての講義をちょうど終えたところだった。一人の学生が授業の後、続けて話したいと言ってきた。この女子学生の思い詰めたような表情に、私は少々危惧を覚えた。私の言ったことの中で、彼女を不快にさせたかもしれないあれやこれやを、私は頭の中で目まぐるしく考え始めた。他の学生が皆、教室から出て行った後、彼女はこう告白した。「私のきょうだいは同性愛者です。先週、家族にそのことを言いました。先生のお考えを伺いたいんです」。
このような状況において、私の心は同情で一杯になる。人のセクシュアリティについての会話は単純ではない。聖書個所をいくつか引用して、はい、さようなら、問題はすべて解決するでしょう、というわけにはいかない。相手の質問、心配、疑いについて、忍耐強くじっくりと話し合わなければならない。こうした対話の端々には、しばしば恐れ、罪悪感、痛み、あるいは恥といった重い感情が現れる。
新約学者として、私はよく、人のセクシュアリティについて非公式に会話することがある。相手は学生だったり、以前の同僚で性同一性障害を抱える息子を持つ人だったり、牧師であって、開かれた教会をリードしながら、聖書の教えを尊重したいというバランスを追求する人だったりするが、人のセクシュアリティが会話に上ることが多くなってきている。
私が質問をされる時、まるで私が、キリスト教の歴史と伝統の中で理解され、肯定されてきたものとは違う、何か新しいものを知っているかのように訊かれる。神は男と女をつくられたこと、一人の男と一人の女による結婚という枠組みの外でのセックスは、聖書の価値観に反すること、これらは今日まで理解され、肯定されてきたことだ。
中には、仮定の質問で私をやんわり試すことから話を始める人もいる。「これこれについて、どう思いますか」という質問は、私の反応を測るための当たり障りのないやり方だ。ソドムとゴモラの性的な罪のことを持ち出す人もいる。そういう話が出ると、私の頭はすぐに創世記19:1–28を思い浮かべるわけではない。むしろ、まずユダの手紙1:7を思い出す。そこにもこの両都市が出てくる。
ユダの手紙は新約聖書の中で私の好きな書簡の1つだ。最初に惹かれたのは学生の時だった。その理由は、短い書簡でありながら、私の好奇心をかき立てる言葉に満ちていたからだ。この書簡のおかげで、私はユダヤ教文学の世界について考えざるを得なくなった。つまり、新約正典ではない書物がここには引用され、みことばとして扱われているのだ。
ユダはエノク書を引用し、夢占いについて語り、天使ミカエルが悪魔と戦うというストーリーに言及し、クリスチャンとなった最初の日から私に託された「信仰のために戦う」ように私を鼓舞する(3、8、9、14–15各節)。預言者、天使、夢と続くと、これ以上迷信的なことはないように思われる!
だが今日、人のセクシュアリティに関する現代的課題に伴い、私は新しい目でユダの手紙を読んでいる。なぜか?ユダは自身の確信について確固たる態度をとっている。妥協の余地はない。霊性と倫理観がゆるんでしまった教会に対して、彼は語りかける。この教会はみことばの教えを見失い、聖書のストーリーを現在の生活に適用し損なってしまった。これにより、この教会は神の恵みを乱用し、キリストが主であることを否定するようになった。
だが、ユダは毅然とした態度で、書簡の受取人に信仰のために戦うよう勧めているものの、同時に苦悩する人々にあわれみを示すようにとも促す。その対象は性的な罪と取り組んでいる人々も含む。そういうわけで今日、私が人のセクシュアリティやジェンダーアイデンティティについての対話をする中で、この書簡はかつてないほどに私と共振するのだ。
セクシュアリティやアンデンティティの話はむずかしい。特に、愛する人や友人、教会員などの中で、この話題がその人の心に近い課題である場合、その人との関係性を持ち続けながら話すのはむずかしい。私にとって、これは単なる抽象的倫理や仮定的状況の話題ではない。実生活に関する対話なのだ。私の教会の兄弟姉妹、私の友人や牧会者仲間は、自身のセクシュアリティについて、またこの話題にどう取り組むかについて、真剣な問いと苦悩を抱えている。
そして、クリスチャンとして、すべての人を心から愛すること、すべての人がイエスを知るように願うこと、また使徒の時代以来、私たちに託されてきた福音の真理をたゆむことなく説き明かし、守ることは、私たちの務めだ。
もしユダが現代に生きていたら、きっと私たちの困難に共鳴するだろうと思う。それどころか、彼の書簡が書かれた1つの動機は、人のセクシュアリティの役割について、共同体内で混乱を引き起こしている人々についてユダが懸念したからだ。
近年、ユダの手紙は一部の学者の間でかなり注目されている。文学的なレベルでのその鋭い修辞は、極端なものととらえられる可能性があり、真理と恵みと愛による福音共同体としての私たちの証しを損ないかねない。そのため、学者の中には、ユダの人物描写や問題描写をどの程度まじめに(あるいは文字通りに)受け取るべきか疑問視する人もいる。たとえば、この書簡の受取人の中で不信仰な人々を「しみ」や「真っ暗な闇が永遠に用意されている、まよえる星」と呼ぶところなどだ(12–13節)。
ユダは本当に、この共同体内で起きていた状況を描写しているのだろうか。それともこの書簡は、当時やはり一般的だった「中傷の修辞表現」の一例なのだろうか。ある人々にとっては、この書簡の言葉遣いは強すぎて、無視するのがいちばんだとされる。
だが、聖書全巻は神の霊感によって書かれたと信頼し、また信じる信仰者として、私はこの書簡を無視するわけにはいかない。私は何度もこの手紙を読み返し、現代のクリスチャン育成と神学的想像力において、この手紙が持つ意義があるに違いないと確信する。
ここでユダの牧会的状況を想像してみよう。彼の書簡の受取人であるクリスチャンが生きていた社会背景は、公共の場での表現、法的保護、人のセクシュアリティについての見解において、現代社会のそれとは全く異なっていた。
当時、一般的に受け入れられていた一連の性的関係や性行動があった。たとえば少年愛(成人男性と少年の関係)、男性の女性的振る舞い、自傷、合法的な性奴隷などだ。不倫を禁ずる法律が可決された時も、その対象はローマ市民だけだった。男性ローマ市民は、使用人に対して合法的に何でもすることができた。使用人は私有財産だからだ。ギリシャ・ローマの一般的文化では、婚外の性行動を、ユダヤ・キリスト教で考えるような罪ある行為とは考えていなかった。
さらに、当時のギリシャ・ローマ社会には、私たちが今日想定するような標準化されたセクシュアリティというものは存在しなかった。ギリシャ人、エチオピア人、スキタイ人、ゲルマン人、ユダヤ人、それぞれに違いがあった。各文化には、性的境界線や性的タブーについて独自の考え方があった。
たとえば、プラトンの『饗宴』には、結婚して子をもうけるギリシャ人男性は、それが道徳的に正しいとか自然だと考えてそうするのではなく、そうするように義務付けられているからするのだと記されている。実際、古代アテネ社会では、2人の男性の間の愛が「すばらしい愛」の至高のかたちだと考えられていた。
プルタークの『リュクルゴス伝』には、スパルタ人男性は複数の妻を持つことで知られていたと記されている。なぜなら、多くの子をもうけることは、国家の利益になると考えられていたからだ。一夫一婦は普通ではなかった。ローマの詩人ティブッルスはその作品の中で、少年に対する自身の欲望を表現する。やはりローマの詩人カトゥルスも同様の心情を表現し、男が女になることの現実性を追求した。また、今日私たちが同性愛と定義するような関係を結んでいた男性たちは、自らの行為が自身のアイデンティティを危うくするとは考えず、その行為自体が間違っているとも考えていなかった。
当時の社会で、彼らの行為は自身の男性的アイデンティティの一部だった。それは学者のDavid Halperin氏が記しているとおりだ。ギリシャ人やローマ人にとって、今日不道徳と考えられるような多くの性的願望や性行動は、人の性質の正常な一部と考えられていた。
文化は異なるものの、ユダが問題視する教会の状況は、ある程度現代の状況に似ている。私たちも、性の基準が変化する中で、どう神に従うか、キリストの教会としてどのように世から選り分けられるべきか(レビ記20:26)、見分けようとする。だが、私はユダの手紙のもう1つの側面に惹かれる。そのことは、この書簡が今日のクリスチャンの生活にとって持つ意義と重要性を、私に再考させる。
書簡の末尾で、ユダはこの共同体についての彼の評価には、同意しない人もいるだろうと認識しているように見える。信者に対しては、彼はすでに明確な指示を提供した。たとえば信仰のために戦うように(3節)、また使徒たちの言葉を思い起こしなさい(17節)という勧めであり、三位一体の神に対する活力ある霊性をどうやって維持するかという指導も与えた。「自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(20–21節)と彼は記す。
ユダは、誰を信じて従えばいいのか、確信が持てない人もいるだろうと予測した。そして、確信が持てない人々は、説得可能な人々でもある。まだきっぱりと決心していないからといって、いつまでも決心しないというわけではない。そこで、ユダは読者に、疑う人にあわれみをかけるよう勧める。「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、(中略)神を恐れつつあわれみなさい」(22–23節)。ここにおける焦点は、イエスに対する信仰を持つとまだ全面的に説得されていない人たちのために、ユダの読者が何をしなければならないかである。
ユダは真理をまげはしないが、自身の書簡の読者に対して、どっちつかずでいる人々が彼に同意するよう強制しなさいとは指導しない。まだ信仰について迷っている人たちを、共同体が罰することをユダは許可していない。むしろ、共同体はあわれみを抱き、疑う人たちがその状況から逃れられるように助けるため、できる限りのことをするよう勧める。
あわれみを抱くとはどういう意味だろうか。旧約聖書において、神のあわれみは神の愛に満ちた親切の表現である。あわれみは神を動かし、人類に対して救いと愛をもって行動させる。あわれみのゆえに、神はヘブライ民族と契約を立てた(出エジプト33:19、ホセア2:19)。事実、神はご自身を「あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み」(出エジプト34:6)と表現する。
神があわれみ深いというこの理解は、聖書全体に鳴り響く。神が私たちにこんなにも良くしてくださるのは、あわれみで説明がつく(イザヤ63:7)。私たちが罪を犯す時、神がなぜすぐさま私たちに裁きをもって臨まないのか、あわれみで理解できる(ヨナ4:2、ゼカリヤ1:12–16)。
ユダヤ文学と新約聖書において、あわれみは神の基本姿勢であり、どうしようもない必要を抱えた人類に対する応答である。もちろん、神は正しい方で、私たちが聖い生活をするように招いておられる。しかし、神がその民を訓練する時でさえ、神はつねにあわれみを忘れない。神はあわれみ深い方なのだ(詩篇145:8)。神は私たちを救う。それは私たちの行いのゆえではなく、「ご自分のあわれみによって」(テトス3:5)である。使徒パウロが宣言するとおり、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました」(エペソ2:4–5)。
だが、あわれみは単に神の活動であるだけではない。あわれみはまた、正しい人の応答でもある。正しい人は、すべての人に対してあわれみ深くあることが期待されている(箴言14:31; 21:26)。イエスは私たちにこう教える。「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」(マタイ5:7)。そして、ユダの手紙において、あわれみ深くあることは、苦闘している人たちに対する最もふさわしい応答である。
この書簡は私に教えてくれる。まだ確信を持てない人たちに対し、あわれみは私の応答であるべきだ。これは私たちが示す必要のある反応だ。なぜなら、これは私たちが苦闘と疑いの中にある時、神が私たちを取り扱われる方法だからだ。
この書簡全体にわたり、かなり強い口調で不道徳を非難する時でさえ(4節)、ユダはあわれみについても語る。彼は読者が「あわれみと平安と愛」を豊かに与えられるように願い(2節)、永遠のいのちに導く「私たちの主イエス・キリストのあわれみを」待ち望むよう励まし(21節)、「ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい」と指導する(22節)。
ジェンダーアイデンティティや人のセクシュアリティについての会話は、今日の新たな文化的転換の前兆かもしれないが、ユダの手紙の宛先共同体にとって、これは珍しい話題ではなかっただろう。牧師、学生、友人が私のところに来て、人のセクシュアリティについて聖書は何と言っているかと問うたびに、あわれみ深くあれというユダの書簡末尾の勧めは私の魂にこだまする。まじめな問いや苦悩や疑いを持つ人たちに対し、私たちの応答は真理とあわれみの両方を含んで流れ出るべきだと、ユダは教える。
誤解のないよう言えば、苦闘する人たちとの会話において、あわれみ深くあるからといって、真理をないがしろにしたり、聖書の教えに反する性行動やジェンダー思想を許容するべきだというのではない。それはユダが描くあわれみの姿ではない。むしろ、あわれみとは、人々が方向転換し、主イエスを求め、神のあわれみを経験するためのチャンスをもう一度持てるように、スペースと時間を提供するということだ。
あわれみとは、聖書の教えをないがしろにせず、私たちに求められている道徳的行動を忘れないようにすることだ。あわれみは、私たちの失敗を認めるためのチャンスを与えてくれる。あわれみは、神の救いを経験するための機会を与えてくれる。
あわれみがなければ、私たちは神の恵みをいったいどうやって味わえるだろうか。もし私たちが他の人たちにあわれみ深く応答しなければ、彼らは神の恵みといやしをどうして経験することができようか。
あわれみ深くあれというユダの勧めは、自分のアイデンティティに疑問を抱く人や、自らのセクシュアリティに苦悩する人に対して、忍耐強く親切であるべきことを私に思い出させる。私たちはすでに真理を持っている。ユダは人のセクシュアリティについての私たちの確信と理解を支援するような、多くのみことばを提供する。しかし、もし私たちが人と対話し、人を弟子訓練する時、あわれみを持たなかったら、真理は何の役に立つだろうか。
Rodolfo Galvan Estrada 3世は、バンガード大学の新約学助教授である。